いにしえ峠道

既に記憶からも遠くなり忘れ去られた峠越えの山道を歩いてます

河内峠からの旧大峠

古峠探索が不発に終わり、このままでは帰れないなと、さらに南にある河内峠を探索してみました。
これも国土地理院地図で発見したものです。

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この峠までは既設の林道が入っているため、麓からの渡渉探索はやめ、まずは峠位置の確認を優先しました。

古地図にはちゃんと峠道も表示されています。

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156国道から下苅安の白山神社を東に入ります。
上部を走る高速道路を過ぎると、フォレストパークみなみや、アースシップなどのアウトドア体験施設を通り過ぎ、さらに林道を進んでいきます。
途中まできれいな舗装路が続き、これは楽勝かと思ったのが大きな間違えです。

河内峠から延びる谷筋の麓まできましたが、とても渡渉探索できるような場所ではなくそのまま車で林道を走ると、道は坂がきつくなるころダートとなり狭く荒れた道になります。

始めはゆっくり走れば問題ないと思っていたのですが、走る程にガレ場は多くなり、谷は深くなり、もちろんUターンできるような場所もなく、対向車がきたらどうなるんだるうと想像すると恐ろしく、車幅ギリギリに路肩が崩れ、さらには倒木がギリギリに倒れている場所数か所。
(車を停めて外へ出ることも危険そうなので写真もありません)

"ふつうならこんな場所通行止めにするだろっ!!"と一人逆切れも後の祭り。

もう前に進むしかありません。

林道がようやく尾根筋近くなり、もうどうにでもなれとあきらめた頃二股に別れる道が現れ、どうもここが峠跡のようです。

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地図には南北に延びる一本道の林道しか記載されていませんが、新たに東から延びる林道まで新設されているようです。

車を止め周辺を探索しました。
確かに越えやすい鞍部となっているので峠道があったことが理解できます。
鞍部周辺を歩いてみたら、ありました。お地蔵さんです。
安政八年(1779)小那比村の粥川惣右衛門さんが設置されたようです。
なぜか上部が割れていますがお地蔵さんの頭は大丈夫でした。

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ここが旧河内峠に間違いはないようですが、峠のお地蔵さん以外の痕跡を見つけることができません。
東側は林道開設で大きく開削されており、西側はかなりの急斜面が続いていて、まっすぐ降りるのは困難なようなので峠道を見つけることは諦めました。

さて帰り道です。来た道を戻ることは考えただけでも恐ろしいので、さらに北に進み大峠の旧道に出ることにしました。
道は尾根筋をまっすぐ進む感じですが、道脇にお地蔵さんが立っています。

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なんで?こんなとこにと思いましたが、よく考えたらここは旧大峠の古道の峠だったようです。
このお地蔵さんも安永三年の設立でした。
ここの鞍部の東側は残土で盛り土され埋め立てられています。たぶん大峠の新道トンネル工事で出たものをここに築土したものでしょう。

西側に降りてみるとありました。つづらおりに続く峠道です。
今でもはっきりとした道跡が残っていることに感激しました。
林道からすぐの所にはもう一つ石像があり、こちらは馬頭観音像のようでした。
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馬を連れてこの峠を往来したのかと、往時の事が想像されます。

一度麓まで降りてみたいです。

 

大峠跡からさらに北に進むと、旧道の峠道にでることができました。

そこにもお地蔵さんがお祀りされてました。

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「美濃の峠」(平成11年岐阜県国道事務所発行)より転載

おおとうげ

大峠

所 在 地:郡上郡八幡町小那比~郡上郡美並村羽佐古口

 


調査委員:古屋 寿彦(郡上郡大和町立南小学校 教諭)

 

1 峠の位置

 

 

 

 


 大峠は、郡上郡美並村と八幡町小那比とを結ぶ峠で「羽佐古峠」とも呼ばれる。国道156号を北上し、郡上郡美並村羽佐古口にて東に入ると大峠に至る県道鹿倉-白山線となる。峠の頂上は海抜512mに位置し、そこで二手に分かれる。一方は八幡町小那比(町道小那比-下川線)、もう一方は八幡町野々倉につながる。峠頂上は美並村と八幡町の境となっているが頂上付近の山林は美並村の村有地になっている。現在、羽佐古口から峠頂上までの上り、峠頂上から小那比までの下りともに細い道ではあるが完全に舗装されている。

 

 


2 峠の概観

 国道より東に入るとすぐに細い道となる。普通車は通行可能であるが、それでもすれ違うときにはやや注意を必要とする。峠頂上に至るまでは、やや傾斜の強い上り坂で、急なカーブが連続する。小那比に至る下り坂もそれと同様である。道中は、杉の植林が続き、昼間でもやや薄暗い感じがする。冬季には、積雪量は多くないものの、凍結や道路脇に残った雪が峠の通行を困難にすることもある。しかし、小川に沿って走る道も多く、車から降りれば、澄んだ川のせせらぎが耳に入り、非常に心地よい。頂上付近より、一本林道がつながるが、そこに足を踏み入れると、近隣の山々が見え、国道より上ってきた道が所々に見える景観の良い場所もある。

 
・頂上付近よりの展望
 県道沿いからは、木に囲まれてなかなか景色を眺めることができないが、少し道を離れていくと、景色が開け、周りの山々の尾根がよく見渡せる


 現在の県道とは別に、旧道も存在するが、現在では所々県道に分断され歩道の近道として希に利用する程度である。
 国道156号美並村羽佐古口には「右のヽくら道 左八まん道 南無地蔵大菩薩」と記された道標が建っている。また、現峠の頂上には、馬頭観音が置かれている。さらにその右手に続いている林道を50mほど行くと、安永3年に三津谷村(現在の小那比の一地区)の新八という人物によって建てられた馬頭観音がひっそりと存在している。これが旧峠の頂上である。また、この年代より小那比と美並村との交流も始まったと言われている。

・頂上より県道(美並村側)を眺める
 杉の植林に囲まれ、はっきりとは見えないが、きついカーブの様子が見える。周りの植林により、日陰になるところが多い。
 

 


3 峠の歴史

3.1 街道を結ぶ道路
 江戸時代に存在した街道に、美濃各地から飛騨に通じる郡上街道、津保街道がある。上之保から小那比にぬけ、大峠を経由して美並村に至る道、八幡町野々倉から大峠を経由して美並村に至る道は、津保街道と郡上街道とを結ぶ道として利用されたという。
 津保街道は「塩の道」と呼ばれ、明治の初め頃まで塩を求めるために、上有知(美濃市)まで出かけた古い道である。塩を求め、田平から洲河(八幡町)へ入り野々倉を経て大峠を越し、下田(美並村)から上有知に入るルートがあった。

 小荷馬(こんだうま)と呼ばれる荷馬の背に塩の俵を均等にふり分けて積み、道中、熊などの被害にあわないように馬につけた鈴を鳴らし、にぎやかに峠越えをしたという。
『和良村史』より


 また、野々倉や小那比地区は笠松代官の支配地として幕府直轄領になっていたため、幕府への年貢米等の輸送にも峠を経由されていた。

3.2 川湊の発達との関わり
 美並村、小那比、野々倉を結ぶ大峠は江戸時代初期よりその交通量が増してきたと言える。それは、川運の発展に起因するところが大きいが、もともと木曽、長良、揖斐の3大河川に木材や年貢、農産物を運搬するために、沿岸には川湊が発展した。この地方の川湊と言えば、上有知(美濃市)であり、大峠を経由して木材等、大矢の渡し場より船荷として運搬された。

3.3 番所
 郡上藩では、郡内の安全を図って人や貨物の出入りを取り締まり、移出入の物品税を取るために口留番所を主要道路においた。番所の番人は2名ずつで、荷物や通行人の検閲を厳重に行い、荷物の移出入に対して諸役を徴収した。郡内には総計17の番所がおかれたが、羽佐古口の番所もその中の一つである。国道より1㎞ほど入った、屯屋敷という地名のところに番所があった。現在では県道の工事等で、跡は残っていない。

3.4 旧道と新道
 昭和に入ると現在の道の基となる道ができた。野々倉で採れるマンガン石、木材を美並村刈安の駅まで運ぶために、新たに道を作っていったのである。それ以前は、人が通れる程度の旧道が峠を越えるためのルートであり、小那比地区の人々は急病人が出たときなど、美並村や八幡町に出ていくため旧道をかごに乗せて吊っていったり、子どもを背負って峠を越えたという話も聞く。
 昭和20年代にはいると、物資の運搬に車を使うこともあって、小那比・野々倉地区より美並村へ行くための道路を拡張する必要性が生じ、道路の拡張を求める請願がなされ、工事が進んだ。昭和30年代には国道から小那比に通じる定期バスが運行されるようになったが、利用者の減少により現在では運行されていない。


4 聞き取り調査より

佐藤千代吉さん(八幡町小那比在住)
*昭和30年代まで大峠道路看守人として従事
「物資の交流としては、美並村や上之保(武儀郡)から、よく物がきたねえ。昭和8年には(大峠付近は)まだ車が走るような道やなかったなあ。それから請願して通れるようになっていったけど、それ前は、やっと人が通れる程度で道って言う道ではなかったなあ。ほんで近道(旧道)ばっかり歩いたり、林道のような道ばっかり歩いとったね。
 昭和30年頃になって、ようやくバスが通るようになったな。その前はまんだやっと馬車が走る程度だったな。
 小那比からは養蚕したり、お茶を作ったり、こんにゃくを作ったりして売りに行ったなあ。(美並村との)交流って言うと材木を切り出して、刈安の駅までみんなで持っていって汽車で運んだんや。材木と、あと、マンガン石を売って生活しとったんや。そのためにどうしてもいい道路を作る必要があったもんでみんなで請願して拡張工事をしてもらったんや。

「峠を通ると言えば、刈安で汽車に乗るために大峠を越える必要があったんや。朝は4時くらいに起きて峠を越えたこともあった。頂上の近くまでいくと朝日が昇るのがよく見えたもんや。それで、ポーッと汽車の汽笛が聞こえてくると安心したもんや。汽笛の音が山へよく響いてきたもんや。それから、汽車を見に行くために峠を越えて刈安まで行くこともあったよ。とにかく汽車が珍しょうてそのために歩いて通ったもんや。」

「あと、洲原の神社へみんなでお参りに行くために峠を越えることもあったなあ。洲原の神社は農業の神様やもんで、いつも田植えが終わるとみんなで行ったよ。それから、雨乞いをするためにも行ったなあ。そんなふうにして昔は峠を通ったもんや。」


5 参考文献

 『郡上八幡町史 上』
 『和良村史』
 『美並村史 上』
 『目で見る 美濃飛騨の街道』 岐阜郷土出版社
 『岐阜県の歴史』
 『郡上郡 地理歴史民族史』

かわちとうげ

河内峠

所 在 地:郡上郡美並村白山下苅安~郡上郡八幡町小那比

 


調査委員:石橋 寿則(美並村立吉田小学校 教諭)

 

1 郡上街道

 郡上街道は、福野坂を下って苅安の旧国道に入る。現在ここは「町切」の地名が残っており、美並村に残る数少ない「町」がついた場所で最も繁華な場所であったらしい。また、畑佐勇氏家は家号を「ホンジ」と呼び、「本陣」から転化したもので、大名の宿所の本陣であった。
 ここから 戸谷川に沿って白山神社まで上り川を渡って乗性寺前に至る。ここで武儀郡舟山街道と合流していた。(写真1)

写真1:銀幣社


 道は乗性寺前を通り北上し、村道を通り大矢元に至る。この道は道路開発によってほとんど残っていない。大矢元の中央部を抜け、上市場から登っている村道を横断し水田の一番上手を通って「馬瀬坂」に至る。峠に道標「是従 右ののくら金山道 左八まん城下道」とある。(写真36)その道標の前の道は幅2mほどではっきりと残っている。峠を越えて、羽佐古谷川を国道に向かって進むと、そこで谷を渡り、山に登って三日市に入る。

真36:道標は近くの雑木林の中に葬られていた。


 その羽佐古口には道標「南無地蔵大菩薩 右ののくら道 左八まん道」がある。この道標は、現在の位置より東の野々倉、小那比街道の三叉路にあったと思われる。(『郡上街道』『美並村村史』より)

峠の位置及び旧道ルートの位置図

 


2 峠道

 苅安の乗性寺南から戸谷川に沿って登ると、道は三つに分かれ、三つの峠に至る道である。入り口には「戸谷口番所」があり、天領と郡上藩の人物往来を監視していた。番所は、国道より200mあまり谷に沿って進むと両側の山が迫って深い谷となる。この深い谷の右手の杉林の中にあったが、現在はその形跡はほとんど不明となっている。
 ここより5,600m進むと「井堀り」と呼ばれる用水池に至る。これは寛文年間(1661~71)郡上藩主遠藤常友の時代に新田開発が行われ、当時の新田奉行高田関左右衛門が福野新田開発のため築堤したものである。この用水池から福野用水トンネルを掘り、新田に通水したものである。現在は、道が整備され、上方を高架した東海北陸自動車道が通っている。その下の大きくカーブした崖の一角に地蔵がまつられている。大正年間、馬子が荷馬車ごと戸谷川に落ち、死亡する事故があったそうである。また、地蔵のまつられている側の竹藪の中には、マンガン鉱を採掘していた一柳さんのダイナマイト倉庫跡が残されている。この用水は、今も使われている。さらに、この井堀池は、フォレストパーク373として整備され、アウトドア施設として観光客や村民の憩いの場となっている。
 井掘りを過ぎ3、400mあまり進むと道は三叉路となり道標が二つある。中央に「南無阿弥陀仏」「右がんそれ、左おなび道」とあり(写真10)、角石の道標には「天保三辰歳や右がんそれ・左か己ち」とある。右は武儀郡武儀町雁曽礼に至る雁曽礼峠。雁曽礼峠道はさらに分かれ、右は武儀郡上之保村舟山にいたる舟山峠の三峠道である。旧道より100m登ったところに、平成三年林道苅安ー雁曽礼線が開通した。

写真10


 左は八幡町小那比の河内に至る河内峠である。旧道はほとんど通行されず、道標があったあたりにわずかに判別できる。(写真10)道幅は狭く、人や自動車の通行はほとんどなく、草木に覆われていた。


3 峠の位置と峠に至る道

 美並村大原と武儀郡富之保を結ぶ県道大原富之保線にある「馬越峠」と
 美並村白山と小那比を結ぶ県道鹿倉白山線にある「大峠」の中間に
 河内峠は位置している。

3.1 美並村側
 峠に至るまで林道を登る。送電線が並び檜・杉が植林された山々が海のように広がっている。林道建設のため曲がりくねった道の岩肌には、変成岩(チャート)が褶曲の様子を見せていた。 林道の途中から河内峠を臨むと、山々の低くなったところが峠である。(カード8) 林道は送電線建設のための道路と交差していて、途中までは自動車で登ることができる。しかし、峠に至る道はわからない。地元の「ササユリ会」の会員の大沢さん、山仕事をする人に案内され、草木の生い茂る峠道に入った。(写真19)


写真19:峠道・入口。山仕事をする人の案内で、道を探しながら峠道に分け入る。 ササユリ通信



 峠道を草分け枝分け進み出たところは、送電線の工事のための道であった。その道が、旧峠道を寸断していたのである。道を横断して、崖を登ると2本の大杉に至った。 ここが、河内峠である。峠からは登ってきた大洞谷を眼下に、広く山並みが続いているのが眺望できすがすがしい。
 大杉の根元に、ひっそりとたたずむはずの地蔵さんが、くずれおちていた。
 大沢さんの案内で、峠道ではない道(昔、散歩がてらに登ったことがある)で大矢元に降りた。

3.2 河内側から峠に至る
 八幡町小那比地内の河内地区には、現在4軒の家がある。河内から林道に入り、1900mほど行くと木々が伐採されて明るくなっているが行き止まりとなる。そこから河内峠に至る旧道にはいる。二本の杉の木がまるで入り口のように並び、美並村側に比べわかりやすい。最近はほとんど使用していないが、河内の石神さんの話によると「昔、峠を越えて苅安にある美容院に行ったことがある。大峠を越えて行くよりずーと近いから。」とのことであった。美並村の店、鉄道に行くのに近道として利用した程度であった。
 峠からの河内側の眺めは、河内地区が高いため、視界はよくない。(写真30

写真30:小那比地内

 


4 明治の森

  河内峠から尾根伝いに北へ行く。送電線の道がある。大峠に至る途中に「明治の森」と名付けられた伝承林があった。1.1haに及ぶ林は永久に保護管理し、禁伐林となっている。