いにしえ峠道

既に記憶からも遠くなり忘れ去られた峠越えの山道を歩いてます

気良峠 郡上市明宝

"気良"と書いてケラと読む。

郡上市の旧明宝村にある集落である。

気良には思い出がある。

郡上にUターンする前に、若者たちのイベントで初めて訪れた場所なのだ。

初めて訪れたその場所は、牧歌的な風景の続くいかにも農村という光景であり、それまで持っていた郡上のイメージが大きく変わったことを覚えている。

気良峠というのは、気良から東に山を越え、吉田川をさらに遡った所にある場所にある支流、奥長尾川の流域集落、奥長尾(なご)集落に抜ける峠だ。


今では二十数件の小さな集落がある洞だが、大きなお寺も残り、以前はさらに多くの人が暮らしていたようだ。
この集落から気良に抜けるには、吉田川をぐるっと下り気良川を遡るのが当たり前になっているが、以前(多分60年以上前)はこの峠を利用していただろう。
気良峠と名づいているのは、奥長尾から気良に抜けるために利用されていたからの名前のようだ。


国土地理院地図にも峠名が表記されており、古道跡が記載されている点線で記載されている。
気良側から探索することを決めたが、奥長尾集落まで抜けるのは時間がかかるため、とりあえず奥長尾の集落と峠口を確認するために向かった。
集落最北には小さな白山神社があり、この谷の氏神として古くから大切にされてきたようだ。
そこから奥にも流域沿いに林道が続き、今ではそちらからも気良に抜ける道があるようで、犬の散歩をされていた村民に気良峠のことを聞いたら、そちらの道を教えてくれた。
もはや古道の峠道のことなど地元の人でさえ覚えていないのだ。
どうやら峠道は神社手前を左に入る小さな谷川沿いに続いているようなので、それを確認し気良側に向かった。

気良側の峠入り口は集落中ほどの田口洞というところから続いている。
集落を北に貫く幹線からすぐのところから洞の入り口となり、洞の入り口となる林道は、作業路のようで入り口に柵が設置してあり、一般車両は入れないようになっている。
当然奥には家はなく、谷筋から山水をとるためのパイプが数本伸びていて、通常はその山水管理のために利用されているようだ。

入り口に車をデポし、柵を開けて歩いて入っていった。

作業路は堰堤あたりまで車(軽トラック)が入っていけるようですが、そこから先はほぼ不可能で各所で崩落しています。
古道の痕跡はほとんど見つけることができません。きっと谷筋に続いていたと思われますが、林業作業路や堰堤工事のため跡形もなくなっています。

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二つ目の堰堤を越えたあたりで、作業路は右へ旋回して尾根筋を登っていますが、結局は元の谷筋の高所を通り合流します。

谷筋がなだらかとなり、旧道跡らしきものも少し見えてくるころ、いよいよ先が明るくなってきたので、峠も近くかと思ったらそこは、広く皆伐されたすり鉢状の谷でした。

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すでに伐採されて十年近く経ったと思われるその跡地は、ほぼ再生の兆しは見られず、土石流の後のように残材木が残る壮絶な光景です。

その尾根筋近くを立派な擁壁で作られた林道が敷設されていて、とりあえずそこまで迂回しながら登ってみました。
地図で峠跡を示す場所まで来ても、ほぼ林道が尾根筋を通っておりどこが峠だか分からない状況でしたが、林道の脇を斜めに降りていくような痕跡があり、20m程下ったところになんと、お地蔵さんが鎮座していました。

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よく見たら、土台の台座も石で組まれ、設置当初からそこにあったことがわかります。
風雪の浸食で彫られた文字もよく見えないのですが、弘化五年(1848)とかろうじて判読できました。
100年くらいは峠を越える人々をこのお地蔵さんは見守ってきたのでしょう。

ここまで1時間以上かかりましたが、まだ道がしっかりしていた当時なら、30~40分かからず峠まで来れたに違いありません。
当時、奥長尾集落の子供たちは、気良の学校へこの道を通って通っていたのだろうと思います。

気良から先には、西に伊妙峠があり寒水に抜けることができます。さらに、母袋に大間見に、六ノ里に抜ける峠道があり、当時は郡上の東西幹線(鎌倉街道とも呼ばれた)であったのでしょう。