いにしえ峠道

既に記憶からも遠くなり忘れ去られた峠越えの山道を歩いてます

母袋と幻の鎌倉街道

母袋を東西に抜けつながる鎌倉街道の概念図

    山を越え伸びる、いにしえのハイウェイ

 

母袋(もたい)

 それがこの集落の通称として古くから呼ばれている名前です。
古い地名には、漢字が定着する以前の地域呼称が含まれていると言われています。

その呼び名にどのような意味が含まれていたのか、今はもう知ることができませんが、この母袋地区を流れる栗巣川の下流には、鎌倉時代の頃より関東武士である東氏(千葉一族)が領有しており、京の貴族や関東の諸侯との文化交流が深められたと言われています。

その居城跡である篠脇城と栗巣川を挟んだ対岸には、千葉一族の氏神である妙見宮(明建神社)が建立され、その参道から続く栗巣川沿いの道は、母袋街道ともいうべき風光明媚な古道が続いています。

栗巣川の上流であるこの母袋地区は、周囲を山に囲まれた最奥の集落ですが、古い時代には山越えの峠道が発達し、周辺の集落と交流がありました。
もはや廃道となり跡形もなくなってしまった道の一部は古老から鎌倉街道と呼ばれていました。

鎌倉街道の鎌倉は、もちろん鎌倉時代の鎌倉であり、鎌倉幕府のあった鎌倉であることは間違いありません。
しかし、この道の先が鎌倉につながっていたということは、地域の人々にも、また歴史資料にも残されてはいないので、伝承の域を出ないというのが今日の見解です。

母袋のみならず、このあたりの村々は多く周辺を山に囲まれた秘境のような集落が点在しています。

西に大間見、北に六ノ里、東に寒水・気良、東に古道がありますが、全ての集落に山越えの峠道が発達していて、まだまだ交通手段の発達していない戦後の60年代ぐらいまでは生活道として住民の多くがこの道を活用していました。
古い時代でいえば、江戸時代の宝暦年間に起こった郡上一揆では、郡上一円の百姓が何度もこの峠道を越えて集まり、年貢取り立ての藩の横暴に抗ったと言われています。

今では、隣村まではぐるりと平地の道を迂回して行くのが当たり前になっていますが、以前は大人も子供もこの峠道を下駄や雪駄で歩いて通いったのだそうです。

その証拠には、隣接する峠越えの村々での婚姻が過去には多く見られといい、若者たちは隣村の盆踊りに峠を越えて出かけたものだと古老は話します。
先ごろ無形文化遺産として郡上踊りとともにユネスコに登録された風流躍り「寒水の掛踊」は、郡上市内の11箇村に残されており、村から村へと伝わったという伝承には、この峠道が集落の伝統芸能のネットワークであったことがうかがえます。
今でもこの小さな集落の中に、お店や宿が残っていたことを考えると、単に隣村との交流だけでなく、山を越えて移動する林業者や薬売り、絹糸や藍染の仲買人達がこの峠を越えて移動することも多くあったのではないでしょうか。


そんなことも今や昔となり、町に働きに出た若者が村に戻らない現象は、ご多分に漏れず地区の人々を悩ましていますが、一方でこの地域の自然と人々の暮らしぶりに魅力を感じ新たに暮らしを始める若者が増えていることも事実です。


自然豊かな山里の風景の中に、往古の時代から繰り返された人々の移動と交流の物語りを想像してみるのもこの地域での楽しみの一つです。