いにしえ峠道

既に記憶からも遠くなり忘れ去られた峠越えの山道を歩いてます

峠の魅力(平成11年3月建設省中部地方建設局岐阜国道事務所発行「美濃の峠」より)

■峠の魅力の構成要素

 岡山大学 環境理工学部 教授
 馬場 俊介

 峠は国境(くにざかい)、市町村境として、人間にとって生活や経済活動の境界となってきた。また、分水嶺という自然の境界線が、動植物や地層の分布境界を形づくってきた。こうした峠と、そこに通じる峠道は、過去においては「異界に通ずる道」であったが、現代では人里と山里を結んで「歴史・自然と親しめる道」として再評価されようとしている。峠道には、一方の端が人里から発していることから、歴史的、民俗的、文化的な色彩が色濃く反映されているし、他端が山ふところの高所に達していることから、広大な山岳眺望を含めた四季折々の自然の美しさにも溢れている。歴史と自然の両者をこれほどまでに堪能できる「システム」は、峠道をおいて他にはない。峠と峠道をより多くの人に魅力的に感じてもらうために、その魅力とは何かについての視点を明らかにし、分析的な調査・研究を行うことは大切な作業である。

<峠の魅力を構成する視点>
①歴史・文化
 歴史・文化に求められるのは、著名な街道としてのブランド・イメージ、峠にまつわる民話・伝承・文学・歌謡、それに、肌で感じられる独自の生活風習や産業構造、学術的には峠の街道に関する史料の集積とその解題など生涯学習と結びつけたソフト整備である。
 1)歴史的に著名な旧街道であったという経緯
 2)峠の茶屋や宿場があったことによって育まれた生活風習
 3)分水嶺、行政区などによって生まれる生活風習の相違
 4)特定の物資の流れが作る独自の文化
 5)地場産業、道路の向かう先にある産業によって特徴付けられる性格
 6)交通の手段やルートの変遷が物語る過去の栄華や現況
 7)季節、災害などの自然要因がもたらす楽しみと苦しみ
 8)道路や峠にまつわる民話、伝承、文学作品、絵画、音楽など
 9)道路や峠にまつわる歴史的な資料の蓄積とその重要性
10)その他「地域らしさ」を感じさせる慣習やライフスタイル

②人工景観
 人工景観について言えば、家屋や田畑などの人造物によって構成されるパースペクティヴな景観を、個々の峠道について克明に調査・評価し、重要なものについては文化財の指定・登録などを行なって社会的に認知を受けるよう努めることが求められる。
 1)家屋や田畑などの人造物によって構成されるパースペクティヴな景観
 2)旧街道そのものに付随する歴史的道路景観の重み
 3)擁壁、切通し、隧道、石畳などの道路関連施設の残存状況
 4)茶屋、お助け小屋などの付帯施設の現況
 5)道祖神、石碑、周辺の社寺仏閣や古墳などの文化財の散在状況
 6)道路沿いの街道集落、周辺の農業集蕗の様式と場所による相違
 7)周辺の田畑(棚田)や農業用水、ため他、樋や水車などの農業景観
 8)周辺の窯、煙突、工場、倉庫、発電用や砂防用の堰などの産業景観
 9)植林された森、並木、記念樹など人工的に手を加えられた森林景観
10)その他「地域らしさ」を感じさせる構造物、農業や産業のシンボル

③自然景観
 自然景観を構成する山岳眺望、流水、地層、植物、動物など様々な要素について、その存在の有無を個別に調査し、特筆すべきものについては観察を容易にし、貴重なものについては保護・育成しようとする方向性が求められる。
 l)山々の眺望や全山の紅葉などを遠望して得られる景観
 2)分水嶺、源流、渓谷、滝など河川上流部に特有な流水景観
 3)池沼、湿地帯など水と植生が混然一帯となった水辺景観
 4)露出した地層、断層、化石層、特殊な岩盤など地質学に関するファクター
 5)独立木、指定木、ユニークな林相など樹木に関するファクター
 6)花、紅葉、貴重種など美しさや珍しさの卓越した植物に関するファクター
 7)沿道に多い家畜、および、自然のカモシカ、猿、リスなど哺乳類ファクター
 8)バードウォッチの適所とか鳥の鳴き声が楽しめるといった鳥類ファクター
 9)蝶、ホタルなどの昆虫、魚から両生類までを含めた動物ファクター
10)その他「地域らしさ」を感じさせる自然、動植物のシンボル

④活用
 魅力をより身近なものと感じるためには、観光機能の充実(道の駅、遊歩道、イベント)、教育機能の充実(資料館、講習会、ガイドブック)などを通じて、魅力の付加価値を高める努力が求められる。
 1)資料館、博物館、美術館などの文化施設の存在
 2)温泉、観光施設、レクリエーション施設、スポーツ施設などの存在
 3)祭り、市、伝統行事、イベント、会合などの存在
 4)保存会、講習会、ボランティア活動など生涯教育関連の活動の存在
 5)名産品、伝統工芸、郷土料理などの存在
 6)案内標識、駐車スペース、遊歩道、展望台、キャンプ場などのファシリティ
 7)ガイドブック、ルート解説本、文化・自然誌の本などの各種出版物
 8)地元における道路と峠道に対する愛着度や関心
 9)個別の道路や峠道に関する開発の是非を含めた可能性の判断
10)その他「地域らしさ」を感じさせる活用のあり方



■峠の郷土史

 岐阜市立徹明小学校 校長・前 岐阜県歴史資料館 館長
 波多野 寿勝

 歴史、なかでも地方史(郷土史)を研究しようとする私は、必ず現場に立ち、現地を歩いて目で見、肌で感じて歴史を実感する。そこに住んでいない限り、短い・長いに係わらず旅をすることになる。文献史料を読み漁って歴史的事実認識と研究課題を漠然とつかみ、何とか当時の姿を思い描き、旧道・古道・峠や史跡・文化財を訪ね、その土地の人達に教えを請い、自分の足で歴史の現場を連結する。
 峠に、牛方組連中の名が台座に刻まれた牛頭観音像の石造物が祠られている。牛方の名前から時期や組連中の組織・規模、運搬した物資の品数など次々と新しい史実を追い求める手法が導き出される。点から線、そして面へと大きく広がり、地方の歴史を解明することとなっていく。そこに生きた人々の生活や思いを知ることができる。小さなことでも新しい史実を知り得た時の喜びは、それまでの苦しさが一度に霧散し爽快感さえ味わうことができる。



■峠の景観

 名古屋造形芸術大学 助教
 岡田 憲久

 峠は変化点である。接している2つの領域が、明確に異なるものとして認識される場合がある。その時、そこを通過するものは不思議な、魅力ある体験をすることができる。一つは峠を境とした自然環境の変化である。そしてもう一つは、2つの文化の変化点であることが認識できる場合である。
 峠に立った時、眺望が開け、別世界が体感される。峠を境に異なる文化環境としての集落の形態の違い、生産作物の違い、祭り等の習俗の違いが、それらの要素の総体としての景観の違いとして感じとれる場合である。



■峠の交通史

 足利工業大学 土木工学科 助教
 為国 孝敏

 三方を険しい山地に囲まれた北欧ノルウェーフィヨルド地方では、同じ民族でありながら集落ごとに風習や言語が異なるという。閉ざされた空間の中には固有の文化が育まれるが、その中で人間はまだ見ぬ地への憧れを高めるようになり、異文化との邂逅・交流のために技術を発展させる。
 「山の向こうに何かがある」。峠は人々の素朴な疑問から知恵と工夫で開かれてきた技術の蓄積そのものである。先人の積み重ねられた峠の開削によって、そこに見果てぬ地との人・物・情報の交流、すなわち交通が発生する。その交通による文化の交流が今日の地域を形成する礎ともなっているのである。
 いわば文化と文化の結節点たる峠の魅力を再認識してはいかがか。



■峠の地域連携

 (財)国土開発技術研究センター 技術顧問
 野村 和正

 峠の調査に関する幅広い活動は、住民の郷土に関する誇りを高めるとともに、地域全体の魅力を拡大し、個性豊かな地域社会の形成、更には地域活性化にも繋がる原動力を秘めていると期待され、誠に喜ばしいことである。
 わが国は、山国であり、生活圏が分断されているが、どの時代にも多くの苦難を乗り越えて、人の往来、物の輸送、文化の交流が進められてきた。その象徴でもある峠道は多くの魅力に溢れているので、リフレッシュのためにも、また「道の文化史」を知る上でも、峠歩きは楽しいものである。
 特に主要な街道筋等では、近代化以降、峠の克服に向けて数段階の道路改良が進められたが、それぞれの時代の道路が現在も機能を分担しながら活用されている例も各地にみられる。今後、ますます地域間の交流と連携が深まるであろうが、合わせて地域固有の魅力が問われる。
 地域の魅力がまた増えることを心から期待している。



■峠の植生

 岐阜大学農学部 教授
 林 進

 上がって下る峠道。低地から高地へと移行していく植生変化を追う楽しみは格別である。峠付近が風当たりの強い風衝地であれば、草原性の植生や低木の連なるかん木林を見ることもできる。また見通しの開けた峠であれば、遠景の山なみの植生が、高度と共に変化していく様相を観察できる。冬季ならば積雪とあいまって、針葉樹の常緑と落葉樹とのコントラストが、水墨画のような風景を演出してくれる。色とりどりの花々、決して一色ではない樹々の緑葉も、峠の旅の友となってくれることはもちろんである。時には行きつ戻りつしながら、植物が作り出す景観を楽しむだけの心と時間のゆとりをもつこと、それが植生の視点からの峠の魅力を満喫する秘訣といえようか。



■峠の地域文化

 岐阜女子大学 地域文化研究所
 道下 淳

 「昼は心配ないが、夜の峠はものの怪(け)が出る。」と筆者の祖母がよく言っていた。飛騨へまだ鉄道が通っていない昭和初年のことである。
 照明が油やロウソクだったころ、夜の屋外は真っ暗で、ものの怪が出てもおかしくなかった。しかし、山国だけに峠は、生活の道である。昼間の登場を遠慮したのかもしれない。民俗学者柳田国男氏は『山の人生』で、同様の話を紹介する。峯を越す峠には夜に怪事がある。別世界の人の足音を聞くこともあると。18世紀中ごろ成立の『飛騨国中案内』に、平湯峠の平湯側に「がたがた橋」の地名があり、越中立山の南門と記す。立山地獄へおちる亡者が渡った「がたがた橋伝説」の存在がうかがえる。
 現在、大きな峠にはトンネルが掘られ、道路改良も進んでいる。峠の怪事など忘却の彼方となった。