いにしえ峠道

既に記憶からも遠くなり忘れ去られた峠越えの山道を歩いてます

美濃の峠と道(平成11年3月建設省中部地方建設局岐阜国道事務所発行「美濃の峠」より)

1 道が開かれる

 狩猟採集の時代、人々が山野を走りまわって踏みつけた跡が小径となり、また獣道が道の原型となっていた。これらの道を使って石器や土器が運ばれ、文化の伝播や物資の交換などの交通現象が始まった。
 弥生時代には各地に「ムラ」から「クニ」が発生し、やがて拡大・統合されていった。それにともなって支配の徹底や貢納物の搬送のため交通施設も整備されていった。
 『日本書紀』に記されている日本武尊信濃坂越えは、中津川市と信州阿知村境の神坂峠であり、険阻な道を越えるにあたり「幣奉り、斎ふ」ことが詠まれるなど、大和から美濃を通り東国へ向かう道や、行旅の安全が祈られたことを知ることができる一例である。



2 東山道と岐蘇路

 国家組織の拡大につれ、中央と地方を結ぶ連絡・兵士の移動・大量の貢納品の搬送・役人の赴任など交通量が増大してきた。このため道路・橋梁・渡し船・宿舎・牛馬など交通施設の整備が必要であり、維持管理のために経済的負担もまた必要であった。
 『日本書記』壬申の乱(672年)の記載には、駅鈴・駅馬・駅家・東方駅使などの文字が見え、既にこのころにはある程度の駅制が整えられていたことが推定される。
 大宝律令(701年)には中国唐の制度にならい駅伝制が定められ、中央と地方の国衙を結ぶ主要道路は大路・中路・小路の七道が整備された。美濃国内は中路の東山道が西から東へ貫いていた。
また「岐蘇山道」・「吉蘇路」の道もこの頃に見え、官道の整備が急速であったことを知ることができる。
 東山道美濃国内には不破駅・大野駅・方県駅・各務駅・可児駅・土岐駅・大井駅・坂本駅が置かれ、駅馬を備え、各郡には伝馬が配されていた。
 東山道の最大の難所は神坂峠であり、神の御坂とも言われた。日本武尊の伝承や『万葉集』神人部忍男の歌にも詠まれ、峠では神祭りが執り行われている。この峠は風雨や長雨によってしばしば崩壊し、復旧工事が行われ、時には断崖の脇に懸け橋が造られたこともある。



3 いざ鎌倉へ

 武士の発生は、やがて平氏と源氏の二つの大きな集団に統合され、武力を背景として覇権を争うようになる。源頼朝は武士団の棟梁として鎌倉に幕府を開き、国々に御家人や家臣を守護・地頭として派遣あるいは任命し全国支配を行った。これまで都へ向かっていた街道は、「いざ鎌倉」のために駆けつける道として整備されていった。美濃の諸街道も「鎌倉街道」と呼びならわされるほど、鎌倉へ直結していくようになる。



4 江戸幕府道中奉行と五街道

4.1 美濃国内の中山道と脇往環道
 慶長5年9月の関ヶ原合戦で勝利を手中にした徳川家康は、全国支配の重要施策の1つとして陸上交通路の整備に意を注いだ。中でも江戸を起点とする東海道中山道甲州街道日光街道奥州街道五街道は、幕府勘定奉行配下の道中奉行が所管する公道(官道)として宿駅・伝馬が整えられた。道中奉行は万治元年(1659)に初めて任命され、配下に道中方を置き、伝馬・旅宿・道路その他道中に関するすべての事務を総括していた。商人や一般行旅者は、統制の厳しい五街道を避け、脇道を利用することが多かった。
 美濃国内を通過する中山道は、東海道とともに江戸と京都を結ぶ最も重要な街道であった。家康は東海道を主線とし、中山道を副線とする東西交通路線の整備と安全に意を注いでおり、中山道東海道の裏街道として政治上・軍事上重大な使命をもっていたことが知られる。東海道には川が多く、しばしば川止めとなることもあり、また浜名湖の一里の渡しや熱田宮から伊勢桑名への七里の渡しが時化にあうことも少なくなかった。これに対して中山道はいたって平坦で、冬季の木曽の山越えを除けば子女でも安全な道であった。
 中山道には全67宿が整えられ、美濃国内ではほぼ中央部を東西に渡って横断し、16宿(落合・中津川・大井・大久手・細久手・御嵩・伏見・太田・鵜沼・加納・河渡・美江寺・赤坂・垂井・関ヶ原・今須)が設けられた。この間には海抜500mの落合宿東の十曲峠(十石峠とも言う)や、大湫宿の十三峠など困難な場所もある。宿駅定置人馬は50人50匹(ただし木曽路11宿は25人25匹)であり、参勤交代に往来した大名は約30家にのぼっている。

 中山道の脇往環道として美濃路伊勢路がある。
 美濃路五街道に準ずる道として重用され、道中奉行の監督下に置かれることもあった。中山道の垂井宿から分岐し、大垣・墨俣を経て木曾川の越しの渡しで尾張国に入り、萩原・稲葉・清洲を通って東海道の熱田宿にいたる街道である。別名「姫街道」とも称された。東海道の宮から桑名までの七里は渡し船であり、七つ時(午後4時)以降は船が出されないため少し遠距離にはなるが、この美濃路が名古屋と京都を結ぶ街道として盛んに利用された。美濃国内には大垣宿と墨俣宿が置かれた。
 伊勢路は伊勢街道とも言われ、中山道関ヶ原宿から分かれて東海道の伊勢桑名宿に至る道である。二筋あり、一つは牧田から一之瀬・多良・時を経て養老山地の西を桑名に至る伊勢西街道、牧田から桜井・竜泉寺・津屋・駒野・山崎・太田の養老山地東を通って伊勢国多度を経由して桑名に至る伊勢東街道である。特に伊勢東街道は、揖斐・長良・木曽の三大河川が集まる輪中地帯を避けて、養老山地にへばりつくように縫っており、北陸方面から西濃地方を経て伊勢・尾張方面に向かう物資輸送路として非常に重要視された。また伊勢まいりの道として賑わったという。

4.2 美濃の諸街道
 美濃国内の街道は、中山道を主要道としてそこから分岐した幾筋もの脇道が走っていた。それらの道は村道から発達したものであり、村から村へ、また郡を越えて人の通る道として、物資輸送の道として発達していった。これらの道は江戸時代の美濃国絵図に見られるところである。主な街道について該略する。

4.2.1 中街道
 土岐郡釜戸から日吉村を通り、可児郡上之郷村を抜け、中山道御嵩宿へ至る街道である。奈良時代東山道の一部であるとも言われている。江戸時代初期、幕府によって中山道が整備された時、付け替えによって取り残された釜戸御嵩間が中街道として残され、村人によって利用されるようになった。

4.2.2 下街道
 中山道大井宿の西方に位置する槙ケ根から分岐して中野・竹折・釜戸・一日市場・戸狩・肥田・高山・土岐口・多治見を通り、内津峠を越えて尾張国に入り名古屋に向かう街道である。内津峠の外はいたって平坦な道が続き、名古屋への最短距離として大いににぎわった道である。信濃国から出る商人荷物をつけた牛馬や瀬戸物をつけた小荷駄馬が多く通行した。また伊勢参宮の旅人もこの道を利用することが多かった。

4.2.3 津保街道
 関町から北上して上有知(現美濃市)へ入り、東進して津保川筋の殿村へ出、さらに北上して若栗で飛騨街道と別れて津保谷を縫って鳥屋市へ達し、放生峠を越えて郡上郡に入る。そこから祖師野を通って馬瀬川を逆上って飛騨萩原へ、そして高山へ達する街道である。この街道は、飛騨高山城主金森長近が関ヶ原合戦の功労によって美濃国内で上有知と関を加増されたことにともない、上有知へ移って築城し、飛騨と上有知を結ぶために整備した街道である。しかしこの街道は寛政年間には飛騨川沿いの飛騨街道に繁栄を奪われてしまっている。
 津保街道の拠点は鳥屋市であり、ここを通る荷物は飛騨からの灰・炭・油・糸類、関・岐阜・名古屋から飛騨へ入る荷物は塩・木綿・古手類が多く、津保谷筋の村人はこれら商人荷物を歩行持ちで駄賃稼ぎをし、生計を立てていた。

4.2.4 郡上街道
 岐阜町から関町へ出、長良川沿いに郡上郡八幡町を経て、白鳥町へ向かう道である。最大の難所は美濃市立花の峠越えであり、頂上部には六角堂が建てられ、道行く人の安全を祈った。中世には白山信仰の道として、参詣者が美濃国外からも訪れるなど大いに賑わった道である。

4.2.5 中馬街道
 信州飯田から伊奈谷に沿って南下する伊奈街道は、信州・三河境の根羽で二筋に分かれ、一つは南へ下って吉田(現豊橋)へ、一つは西南に向かって足助を通って岡崎・名古屋へ至る。
 この中馬街道の脇道として、根羽からいったん三河の大桑へ出、すぐ美濃国に入り小笠原・横道を経て、上村・明知・柿野を通って尾張の瀬戸・名古屋へ通じる街道があった。東美濃の南部を東西に走り、これらの村々を南信州と名古屋を結び付け、商い荷物の中継地となっていた。村人の中には馬士として地方産物の運送に従事し、生計を立てるものもいた。明治初年頃、中馬街道筋の恵那郡内25か村の牛馬数は、馬が694頭・牛が89頭であり、農間稼ぎ・駄賃稼ぎの外に馬方を本業とするものがいるなど、商品の動きが活発になって来ていたことを表している。

4.2.6 大名街道
 岩村城下から江戸へ出る道は、まず大井宿へ出、ついで中山道を使う約91里の道程、甲州路を信州飯田経由する86里、東海道を岡崎経由する98里の三通りがあった。岩村藩主は参勤交代にあたって主に東海道経由する方法を取っていた。このため岩村から三河国に入るまでの道を大名街道と称していた。岩村から根ノ上・上平に出、夕立山の北側を通り佐々良木へいたる。さらに尾根づたいに不動・上平を過ぎ、町屋へ下りて下街道に出る。ここから下街道を通って土岐までたどり、下街道と分かれて南下し、駄知から曽木・細野へ向い、ここでいったん中馬街道に入り、柿野を経てまた中切で中馬街道と分かれて南下し、三国山の東を抜けて三河国加茂郡に入り、衣母・岡崎を過ぎて東海道に入り江戸へ向かう。  藩主の意図的な迂回道の整備は、領内巡回ばかりでなく物資の搬送に従事する領民が生活を立てていく施策ともなったとみられる。



5 鉄道の開通と道

 明治維新後、西欧の近代文明が一挙に流入してきた。政治・経済・社会の変革は目を見張るものがあり、交通運輸の変化もその一つであった。これまで人力(歩荷)・牛馬・船舶による運送が主であったものが、大量輸送できる鉄道の敷設は街道の姿を大きく変えて行った。
 明治時代に県内を通過する国有鉄道は東海導線と中央線だけであったが、大正年間には飛騨縦貫鉄道・濃越鉄道・飛越線・越美線・太多線などの鉄道敷設請願や意見書が県会で議決され、高山線は大正9年に岐阜・各務原間が開通し、次いで太田・白川口と延長され、昭和9年には富山まで全通した。越美南線は大正12年に太田から美濃町まで開通し、次いで白鳥まで、昭和9年には北濃まで通じている。美濃赤坂線は大正8年、太多線は昭和3年に完成している。
 こうした鉄道網の開通の一方で新しい道路行政も積極的に推進されている。廃藩置県後、次第に明治新政府による中央集権体制が整ってくると、岐阜県内の道路も等級化された。明治6年、一等道路は中山道、二等道路は美濃路・北國街道・下街道・飛騨街道(蔵之前から金山村まで)・名古屋街道、三等道路は中馬街道・伊勢街道・越前街道・飛騨街道(中津川から加子母村まで)・飛騨街道(石原村から神淵村まで)と定められた。この等級づけも翌年年5月に変更され、次いで明治9年9月には太政官布達にもとづき全て廃止された。そして翌10年9月国道・県道として次の10本の街道が等級づけられた。

国道1等 中山道 不破郡今須駅から恵那郡落合駅
国道3等 名古屋街道 厚見郡岐阜町から羽栗郡田代村
国道3等 美濃路 不破郡垂井駅から中島郡新井村
国道3等 北國街道 不破郡関ヶ原駅から同郡玉村
県道1等 下街道 恵那郡竹折村から可児郡田中村
県道2等 飛騨街道 厚見郡蔵前村から大野郡高山町
県道3等 郡上街道 武儀郡小屋名村から郡上郡八幡町
県道3等 越中街道 大野郡高山町から吉城郡谷駅
県道3等 木曽街道 大野郡高山町から益田郡野麦駅



 その後、岐阜県会は度々県内道路の格上げを建議し、明治35年には8道を県道として追加している。道路改修費も明治14年以来、地方税で支出し、他県に比較しても改修率は極めて高かった。
 一方、県会は明治38年12月、「道路改修の結果、交通は便利になったが、国・県道にある大小河川の橋梁および渡船のうちまだ賃銭を徴収するものが多い」とか橋梁の新架・改修を要請しており、順次これらについても対応が進み、通交が便利になっていった。
 大正8年4月道路法が公布され、翌年から施行された。全道路が国道・県道・郡道・市道・町村道の5種類に区分され、それぞれの許可権限が定められた。また道路法施行とともに道路構造令が施行され、幅員・勾配・側溝・橋梁幅員などが定められた。昭和期になると、国道や県道の維持・修繕のために「道路の整備は文化の普及・産業の発達・軍事国防と密接な関係があり」、「本県の国県道の延長は3,500km、市町村道は2万2,540km余りに達し」として国策的な立場からも積極的に改良に努めている。



6 歴史的遺産(文化財)として街道・峠の保護

 街道や峠は、人々の生活、就中交通運輸・産業経済と密接に結び付いていたが、時代の移り変わりとともに姿・形を大きく変えてきている。人の道から車の道に利用目的が転換してきている現在では、かつての道は忘れ去られようとしている。
 こうしたある時代に脚光を浴びた街道や峠を歴史的遺産として保護し、語り伝えようという動きは行政機関は言うまでもなく、民間にもみられる。文化財としての指定であったり、観光資源としての活用であったり、自然保護・健康の場としての活用など他方面にわたっている。
 ここでは道にかかわる歴史的遺産が、文化財として保護されている例をいくつか掲げておく。

越渡船場灯台 羽島市正木町新井
木曾川笠松船場跡「石畳」 羽島郡笠松町河川敷坂路
不破関 不破郡関ヶ原町松尾
垂井一里塚 不破郡垂井町日守
上有知湊 美濃市
旧太田脇本陣林家住宅 美濃加茂市太田本町
兼山湊跡 可児郡兼山町下町
中山道落合の石畳 中津川市落合
瑞浪一里塚 瑞浪市大湫町細久手、日吉町
琵琶峠 瑞浪市大湫町八瀬沢、日吉町
一里塚 恵那市武並町藤紅坂
一里塚 恵那市長島町中野槙ケ根
大井宿本陣跡 恵那市大井町