いにしえ峠道

既に記憶からも遠くなり忘れ去られた峠越えの山道を歩いてます

幻の鎌倉街道を考える⑤

中世にこの鎌倉街道が本来の目的通り軍事利用されていたのなら、何等か歴史記述にその痕跡があるに違いない。

近いところからその痕跡をたどってみよう。

太平記』によれば、延元3年(1338年)頃、足利幕府は、越前の南朝新田義貞を討つため東海の諸将を差し向けた。中でも美濃の守護土岐弾正少弼頼遠は、搦め手の大将として美濃・尾張の軍勢を率いて郡上から油坂峠を越え、穴馬を通って越前大野に進撃し、新田方の脇屋義助を攻めたとされる。
 天文9年(1540年)8月、朝倉は美濃郡上・東氏の篠脇城を攻撃した。その際、東氏側の堅い守りと反撃に遭い、油坂を登って越前へ逃げ帰ったとされる。朝倉勢は翌年再び郡上へ侵入したが、東氏は向小駄良でこれを迎え撃ち退けた。
 また、天正3年(1575年)信長の越前一向一揆討伐で、郡上遠藤氏は油坂峠を守備した一揆軍を撃ち、このとき流れた血潮で道が滑って歩けなかったことから「油坂」という名がついたという話も伝えられる。

これは、中世14世紀から16世紀末にかけて越前美濃境である油坂峠を越えた歴史的記述である。
中世の頃の美濃越前地域は、群雄割拠の戦国時代まで領地領土をめぐる武士達の戦場となっており、美濃越前境は戦略的にも大変重要な要路であった。
北は白山山塊に阻まれ、比叡山別院白山寺宗徒の牙城となっており、油坂から西に延びる越美山系の峠越えは、軍事的にも大変重要な位置づけをされていたのだ。

越前府中(武生市)から越美山系を越えて美濃揖斐川筋へ抜けるルートも古くから鎌倉街道の伝承の残る場所である。府中から池田を抜け、海水から温水峠を越えて根尾川筋を南下し東海道へつながる最短ルートであった。


油坂峠、仏峠、蝿帽子峠、温水峠はいずれも、古い時代から発達した越美山系の峠道であり、美濃越前の軍事、経済および文化交流を促た。

ある意味、これらの諸道が越前および京都をつなぐもう一つのルートとするならば、同様に東(鎌倉)に抜けるルートが必要となる。

越前穴馬から続く油坂峠、仏峠を越えひたすら西に向かう鎌倉街道は、中世戦乱期の軍事的要請として重要路であったと考えられる。

幻の鎌倉街道⑥につづく・・・