いにしえ峠道

既に記憶からも遠くなり忘れ去られた峠越えの山道を歩いてます

仏(佛)峠

この峠は現在の国土地理院地図ではその場所が明記されていない、まさに旧峠です。

場所は、郡上市に現在建設中の内ヶ谷ダムサイトの西北西の福井県境にあった峠道で、福井の旧穴馬村にある野々小屋谷川から荷暮集落に出る山道です。

今回は、岐阜の県道52号(白鳥板取線)で落部から内ヶ谷に抜け、金山の橋の手前を内ヶ谷川に沿って北に抜ける林道に入り、なら谷を越えて少し行くと川が二股に分かれる場所があり、北に行くとしょうけ谷への道になるので左側に行きたいのですが、その先は造林作業によりゲートが施錠されているため車を手前に停めて歩きました。

よく整備された川沿いの林道を30分程度歩いた先に小さな橋があり、橋柱に「ほとけたに橋」と書かれており、橋を渡りすぐの右の谷筋に向かいます。
そこから先は作業路跡が続いてますが、車では入れない状況です。
途中から谷筋も狭くなり、作業路も切れ旧道跡の谷道が現れます。
何度か谷を渡り道跡をたどると急に鞍部らしき場所が開け、100m程で峠跡(標高930m)にたどり着けました。

古い旧道跡は、峠の手前50m程しかたどれませんが、峠は昔のままの雰囲気を残しており、峠には[南無妙法蓮華経」と書かれた石碑と峠の地蔵が残され、平成19年に設置され、峠の名称を刻印した石碑がありました。

越前側は下ってみなかったので確かなことは言えませんが、地図で見ると野々小屋谷川の源流に出て途中からは林道となっているようです。
その野々小屋谷川を下ると荷暮川に合流し、旧荷暮集落に出るようです。
合流点を少し下った所から西の谷に向かうと岩井峠という峠もあったようでここを越えると面谷川にも行けるようです。

戦国期には信長の軍勢が油坂峠やこの峠を越えて、穴馬に入り一向一揆勢力戦ったという歴史があるようですが、なかなか馬で越えるのは大変な峠道です。
周辺の峠道を見ていると、美濃から越前に抜けるための山道であり、往時は商人や炭焼き、木地師が残雪期の油坂を避けてこの峠を利用したように思われます。

仏(佛)峠の所在を示す旧地図


f:id:peksan:20230717005325j:image

f:id:peksan:20230717005404j:image

f:id:peksan:20230717005427j:image

 

幻の鎌倉街道を考える⑤

中世にこの鎌倉街道が本来の目的通り軍事利用されていたのなら、何等か歴史記述にその痕跡があるに違いない。

近いところからその痕跡をたどってみよう。

太平記』によれば、延元3年(1338年)頃、足利幕府は、越前の南朝新田義貞を討つため東海の諸将を差し向けた。中でも美濃の守護土岐弾正少弼頼遠は、搦め手の大将として美濃・尾張の軍勢を率いて郡上から油坂峠を越え、穴馬を通って越前大野に進撃し、新田方の脇屋義助を攻めたとされる。
 天文9年(1540年)8月、朝倉は美濃郡上・東氏の篠脇城を攻撃した。その際、東氏側の堅い守りと反撃に遭い、油坂を登って越前へ逃げ帰ったとされる。朝倉勢は翌年再び郡上へ侵入したが、東氏は向小駄良でこれを迎え撃ち退けた。
 また、天正3年(1575年)信長の越前一向一揆討伐で、郡上遠藤氏は油坂峠を守備した一揆軍を撃ち、このとき流れた血潮で道が滑って歩けなかったことから「油坂」という名がついたという話も伝えられる。

これは、中世14世紀から16世紀末にかけて越前美濃境である油坂峠を越えた歴史的記述である。
中世の頃の美濃越前地域は、群雄割拠の戦国時代まで領地領土をめぐる武士達の戦場となっており、美濃越前境は戦略的にも大変重要な要路であった。
北は白山山塊に阻まれ、比叡山別院白山寺宗徒の牙城となっており、油坂から西に延びる越美山系の峠越えは、軍事的にも大変重要な位置づけをされていたのだ。

越前府中(武生市)から越美山系を越えて美濃揖斐川筋へ抜けるルートも古くから鎌倉街道の伝承の残る場所である。府中から池田を抜け、海水から温水峠を越えて根尾川筋を南下し東海道へつながる最短ルートであった。


油坂峠、仏峠、蝿帽子峠、温水峠はいずれも、古い時代から発達した越美山系の峠道であり、美濃越前の軍事、経済および文化交流を促た。

ある意味、これらの諸道が越前および京都をつなぐもう一つのルートとするならば、同様に東(鎌倉)に抜けるルートが必要となる。

越前穴馬から続く油坂峠、仏峠を越えひたすら西に向かう鎌倉街道は、中世戦乱期の軍事的要請として重要路であったと考えられる。

幻の鎌倉街道⑥につづく・・・


美濃の峠と道(平成11年3月建設省中部地方建設局岐阜国道事務所発行「美濃の峠」より)

1 道が開かれる

 狩猟採集の時代、人々が山野を走りまわって踏みつけた跡が小径となり、また獣道が道の原型となっていた。これらの道を使って石器や土器が運ばれ、文化の伝播や物資の交換などの交通現象が始まった。
 弥生時代には各地に「ムラ」から「クニ」が発生し、やがて拡大・統合されていった。それにともなって支配の徹底や貢納物の搬送のため交通施設も整備されていった。
 『日本書紀』に記されている日本武尊信濃坂越えは、中津川市と信州阿知村境の神坂峠であり、険阻な道を越えるにあたり「幣奉り、斎ふ」ことが詠まれるなど、大和から美濃を通り東国へ向かう道や、行旅の安全が祈られたことを知ることができる一例である。



2 東山道と岐蘇路

 国家組織の拡大につれ、中央と地方を結ぶ連絡・兵士の移動・大量の貢納品の搬送・役人の赴任など交通量が増大してきた。このため道路・橋梁・渡し船・宿舎・牛馬など交通施設の整備が必要であり、維持管理のために経済的負担もまた必要であった。
 『日本書記』壬申の乱(672年)の記載には、駅鈴・駅馬・駅家・東方駅使などの文字が見え、既にこのころにはある程度の駅制が整えられていたことが推定される。
 大宝律令(701年)には中国唐の制度にならい駅伝制が定められ、中央と地方の国衙を結ぶ主要道路は大路・中路・小路の七道が整備された。美濃国内は中路の東山道が西から東へ貫いていた。
また「岐蘇山道」・「吉蘇路」の道もこの頃に見え、官道の整備が急速であったことを知ることができる。
 東山道美濃国内には不破駅・大野駅・方県駅・各務駅・可児駅・土岐駅・大井駅・坂本駅が置かれ、駅馬を備え、各郡には伝馬が配されていた。
 東山道の最大の難所は神坂峠であり、神の御坂とも言われた。日本武尊の伝承や『万葉集』神人部忍男の歌にも詠まれ、峠では神祭りが執り行われている。この峠は風雨や長雨によってしばしば崩壊し、復旧工事が行われ、時には断崖の脇に懸け橋が造られたこともある。



3 いざ鎌倉へ

 武士の発生は、やがて平氏と源氏の二つの大きな集団に統合され、武力を背景として覇権を争うようになる。源頼朝は武士団の棟梁として鎌倉に幕府を開き、国々に御家人や家臣を守護・地頭として派遣あるいは任命し全国支配を行った。これまで都へ向かっていた街道は、「いざ鎌倉」のために駆けつける道として整備されていった。美濃の諸街道も「鎌倉街道」と呼びならわされるほど、鎌倉へ直結していくようになる。



4 江戸幕府道中奉行と五街道

4.1 美濃国内の中山道と脇往環道
 慶長5年9月の関ヶ原合戦で勝利を手中にした徳川家康は、全国支配の重要施策の1つとして陸上交通路の整備に意を注いだ。中でも江戸を起点とする東海道中山道甲州街道日光街道奥州街道五街道は、幕府勘定奉行配下の道中奉行が所管する公道(官道)として宿駅・伝馬が整えられた。道中奉行は万治元年(1659)に初めて任命され、配下に道中方を置き、伝馬・旅宿・道路その他道中に関するすべての事務を総括していた。商人や一般行旅者は、統制の厳しい五街道を避け、脇道を利用することが多かった。
 美濃国内を通過する中山道は、東海道とともに江戸と京都を結ぶ最も重要な街道であった。家康は東海道を主線とし、中山道を副線とする東西交通路線の整備と安全に意を注いでおり、中山道東海道の裏街道として政治上・軍事上重大な使命をもっていたことが知られる。東海道には川が多く、しばしば川止めとなることもあり、また浜名湖の一里の渡しや熱田宮から伊勢桑名への七里の渡しが時化にあうことも少なくなかった。これに対して中山道はいたって平坦で、冬季の木曽の山越えを除けば子女でも安全な道であった。
 中山道には全67宿が整えられ、美濃国内ではほぼ中央部を東西に渡って横断し、16宿(落合・中津川・大井・大久手・細久手・御嵩・伏見・太田・鵜沼・加納・河渡・美江寺・赤坂・垂井・関ヶ原・今須)が設けられた。この間には海抜500mの落合宿東の十曲峠(十石峠とも言う)や、大湫宿の十三峠など困難な場所もある。宿駅定置人馬は50人50匹(ただし木曽路11宿は25人25匹)であり、参勤交代に往来した大名は約30家にのぼっている。

 中山道の脇往環道として美濃路伊勢路がある。
 美濃路五街道に準ずる道として重用され、道中奉行の監督下に置かれることもあった。中山道の垂井宿から分岐し、大垣・墨俣を経て木曾川の越しの渡しで尾張国に入り、萩原・稲葉・清洲を通って東海道の熱田宿にいたる街道である。別名「姫街道」とも称された。東海道の宮から桑名までの七里は渡し船であり、七つ時(午後4時)以降は船が出されないため少し遠距離にはなるが、この美濃路が名古屋と京都を結ぶ街道として盛んに利用された。美濃国内には大垣宿と墨俣宿が置かれた。
 伊勢路は伊勢街道とも言われ、中山道関ヶ原宿から分かれて東海道の伊勢桑名宿に至る道である。二筋あり、一つは牧田から一之瀬・多良・時を経て養老山地の西を桑名に至る伊勢西街道、牧田から桜井・竜泉寺・津屋・駒野・山崎・太田の養老山地東を通って伊勢国多度を経由して桑名に至る伊勢東街道である。特に伊勢東街道は、揖斐・長良・木曽の三大河川が集まる輪中地帯を避けて、養老山地にへばりつくように縫っており、北陸方面から西濃地方を経て伊勢・尾張方面に向かう物資輸送路として非常に重要視された。また伊勢まいりの道として賑わったという。

4.2 美濃の諸街道
 美濃国内の街道は、中山道を主要道としてそこから分岐した幾筋もの脇道が走っていた。それらの道は村道から発達したものであり、村から村へ、また郡を越えて人の通る道として、物資輸送の道として発達していった。これらの道は江戸時代の美濃国絵図に見られるところである。主な街道について該略する。

4.2.1 中街道
 土岐郡釜戸から日吉村を通り、可児郡上之郷村を抜け、中山道御嵩宿へ至る街道である。奈良時代東山道の一部であるとも言われている。江戸時代初期、幕府によって中山道が整備された時、付け替えによって取り残された釜戸御嵩間が中街道として残され、村人によって利用されるようになった。

4.2.2 下街道
 中山道大井宿の西方に位置する槙ケ根から分岐して中野・竹折・釜戸・一日市場・戸狩・肥田・高山・土岐口・多治見を通り、内津峠を越えて尾張国に入り名古屋に向かう街道である。内津峠の外はいたって平坦な道が続き、名古屋への最短距離として大いににぎわった道である。信濃国から出る商人荷物をつけた牛馬や瀬戸物をつけた小荷駄馬が多く通行した。また伊勢参宮の旅人もこの道を利用することが多かった。

4.2.3 津保街道
 関町から北上して上有知(現美濃市)へ入り、東進して津保川筋の殿村へ出、さらに北上して若栗で飛騨街道と別れて津保谷を縫って鳥屋市へ達し、放生峠を越えて郡上郡に入る。そこから祖師野を通って馬瀬川を逆上って飛騨萩原へ、そして高山へ達する街道である。この街道は、飛騨高山城主金森長近が関ヶ原合戦の功労によって美濃国内で上有知と関を加増されたことにともない、上有知へ移って築城し、飛騨と上有知を結ぶために整備した街道である。しかしこの街道は寛政年間には飛騨川沿いの飛騨街道に繁栄を奪われてしまっている。
 津保街道の拠点は鳥屋市であり、ここを通る荷物は飛騨からの灰・炭・油・糸類、関・岐阜・名古屋から飛騨へ入る荷物は塩・木綿・古手類が多く、津保谷筋の村人はこれら商人荷物を歩行持ちで駄賃稼ぎをし、生計を立てていた。

4.2.4 郡上街道
 岐阜町から関町へ出、長良川沿いに郡上郡八幡町を経て、白鳥町へ向かう道である。最大の難所は美濃市立花の峠越えであり、頂上部には六角堂が建てられ、道行く人の安全を祈った。中世には白山信仰の道として、参詣者が美濃国外からも訪れるなど大いに賑わった道である。

4.2.5 中馬街道
 信州飯田から伊奈谷に沿って南下する伊奈街道は、信州・三河境の根羽で二筋に分かれ、一つは南へ下って吉田(現豊橋)へ、一つは西南に向かって足助を通って岡崎・名古屋へ至る。
 この中馬街道の脇道として、根羽からいったん三河の大桑へ出、すぐ美濃国に入り小笠原・横道を経て、上村・明知・柿野を通って尾張の瀬戸・名古屋へ通じる街道があった。東美濃の南部を東西に走り、これらの村々を南信州と名古屋を結び付け、商い荷物の中継地となっていた。村人の中には馬士として地方産物の運送に従事し、生計を立てるものもいた。明治初年頃、中馬街道筋の恵那郡内25か村の牛馬数は、馬が694頭・牛が89頭であり、農間稼ぎ・駄賃稼ぎの外に馬方を本業とするものがいるなど、商品の動きが活発になって来ていたことを表している。

4.2.6 大名街道
 岩村城下から江戸へ出る道は、まず大井宿へ出、ついで中山道を使う約91里の道程、甲州路を信州飯田経由する86里、東海道を岡崎経由する98里の三通りがあった。岩村藩主は参勤交代にあたって主に東海道経由する方法を取っていた。このため岩村から三河国に入るまでの道を大名街道と称していた。岩村から根ノ上・上平に出、夕立山の北側を通り佐々良木へいたる。さらに尾根づたいに不動・上平を過ぎ、町屋へ下りて下街道に出る。ここから下街道を通って土岐までたどり、下街道と分かれて南下し、駄知から曽木・細野へ向い、ここでいったん中馬街道に入り、柿野を経てまた中切で中馬街道と分かれて南下し、三国山の東を抜けて三河国加茂郡に入り、衣母・岡崎を過ぎて東海道に入り江戸へ向かう。  藩主の意図的な迂回道の整備は、領内巡回ばかりでなく物資の搬送に従事する領民が生活を立てていく施策ともなったとみられる。



5 鉄道の開通と道

 明治維新後、西欧の近代文明が一挙に流入してきた。政治・経済・社会の変革は目を見張るものがあり、交通運輸の変化もその一つであった。これまで人力(歩荷)・牛馬・船舶による運送が主であったものが、大量輸送できる鉄道の敷設は街道の姿を大きく変えて行った。
 明治時代に県内を通過する国有鉄道は東海導線と中央線だけであったが、大正年間には飛騨縦貫鉄道・濃越鉄道・飛越線・越美線・太多線などの鉄道敷設請願や意見書が県会で議決され、高山線は大正9年に岐阜・各務原間が開通し、次いで太田・白川口と延長され、昭和9年には富山まで全通した。越美南線は大正12年に太田から美濃町まで開通し、次いで白鳥まで、昭和9年には北濃まで通じている。美濃赤坂線は大正8年、太多線は昭和3年に完成している。
 こうした鉄道網の開通の一方で新しい道路行政も積極的に推進されている。廃藩置県後、次第に明治新政府による中央集権体制が整ってくると、岐阜県内の道路も等級化された。明治6年、一等道路は中山道、二等道路は美濃路・北國街道・下街道・飛騨街道(蔵之前から金山村まで)・名古屋街道、三等道路は中馬街道・伊勢街道・越前街道・飛騨街道(中津川から加子母村まで)・飛騨街道(石原村から神淵村まで)と定められた。この等級づけも翌年年5月に変更され、次いで明治9年9月には太政官布達にもとづき全て廃止された。そして翌10年9月国道・県道として次の10本の街道が等級づけられた。

国道1等 中山道 不破郡今須駅から恵那郡落合駅
国道3等 名古屋街道 厚見郡岐阜町から羽栗郡田代村
国道3等 美濃路 不破郡垂井駅から中島郡新井村
国道3等 北國街道 不破郡関ヶ原駅から同郡玉村
県道1等 下街道 恵那郡竹折村から可児郡田中村
県道2等 飛騨街道 厚見郡蔵前村から大野郡高山町
県道3等 郡上街道 武儀郡小屋名村から郡上郡八幡町
県道3等 越中街道 大野郡高山町から吉城郡谷駅
県道3等 木曽街道 大野郡高山町から益田郡野麦駅



 その後、岐阜県会は度々県内道路の格上げを建議し、明治35年には8道を県道として追加している。道路改修費も明治14年以来、地方税で支出し、他県に比較しても改修率は極めて高かった。
 一方、県会は明治38年12月、「道路改修の結果、交通は便利になったが、国・県道にある大小河川の橋梁および渡船のうちまだ賃銭を徴収するものが多い」とか橋梁の新架・改修を要請しており、順次これらについても対応が進み、通交が便利になっていった。
 大正8年4月道路法が公布され、翌年から施行された。全道路が国道・県道・郡道・市道・町村道の5種類に区分され、それぞれの許可権限が定められた。また道路法施行とともに道路構造令が施行され、幅員・勾配・側溝・橋梁幅員などが定められた。昭和期になると、国道や県道の維持・修繕のために「道路の整備は文化の普及・産業の発達・軍事国防と密接な関係があり」、「本県の国県道の延長は3,500km、市町村道は2万2,540km余りに達し」として国策的な立場からも積極的に改良に努めている。



6 歴史的遺産(文化財)として街道・峠の保護

 街道や峠は、人々の生活、就中交通運輸・産業経済と密接に結び付いていたが、時代の移り変わりとともに姿・形を大きく変えてきている。人の道から車の道に利用目的が転換してきている現在では、かつての道は忘れ去られようとしている。
 こうしたある時代に脚光を浴びた街道や峠を歴史的遺産として保護し、語り伝えようという動きは行政機関は言うまでもなく、民間にもみられる。文化財としての指定であったり、観光資源としての活用であったり、自然保護・健康の場としての活用など他方面にわたっている。
 ここでは道にかかわる歴史的遺産が、文化財として保護されている例をいくつか掲げておく。

越渡船場灯台 羽島市正木町新井
木曾川笠松船場跡「石畳」 羽島郡笠松町河川敷坂路
不破関 不破郡関ヶ原町松尾
垂井一里塚 不破郡垂井町日守
上有知湊 美濃市
旧太田脇本陣林家住宅 美濃加茂市太田本町
兼山湊跡 可児郡兼山町下町
中山道落合の石畳 中津川市落合
瑞浪一里塚 瑞浪市大湫町細久手、日吉町
琵琶峠 瑞浪市大湫町八瀬沢、日吉町
一里塚 恵那市武並町藤紅坂
一里塚 恵那市長島町中野槙ケ根
大井宿本陣跡 恵那市大井町

峠の魅力(平成11年3月建設省中部地方建設局岐阜国道事務所発行「美濃の峠」より)

■峠の魅力の構成要素

 岡山大学 環境理工学部 教授
 馬場 俊介

 峠は国境(くにざかい)、市町村境として、人間にとって生活や経済活動の境界となってきた。また、分水嶺という自然の境界線が、動植物や地層の分布境界を形づくってきた。こうした峠と、そこに通じる峠道は、過去においては「異界に通ずる道」であったが、現代では人里と山里を結んで「歴史・自然と親しめる道」として再評価されようとしている。峠道には、一方の端が人里から発していることから、歴史的、民俗的、文化的な色彩が色濃く反映されているし、他端が山ふところの高所に達していることから、広大な山岳眺望を含めた四季折々の自然の美しさにも溢れている。歴史と自然の両者をこれほどまでに堪能できる「システム」は、峠道をおいて他にはない。峠と峠道をより多くの人に魅力的に感じてもらうために、その魅力とは何かについての視点を明らかにし、分析的な調査・研究を行うことは大切な作業である。

<峠の魅力を構成する視点>
①歴史・文化
 歴史・文化に求められるのは、著名な街道としてのブランド・イメージ、峠にまつわる民話・伝承・文学・歌謡、それに、肌で感じられる独自の生活風習や産業構造、学術的には峠の街道に関する史料の集積とその解題など生涯学習と結びつけたソフト整備である。
 1)歴史的に著名な旧街道であったという経緯
 2)峠の茶屋や宿場があったことによって育まれた生活風習
 3)分水嶺、行政区などによって生まれる生活風習の相違
 4)特定の物資の流れが作る独自の文化
 5)地場産業、道路の向かう先にある産業によって特徴付けられる性格
 6)交通の手段やルートの変遷が物語る過去の栄華や現況
 7)季節、災害などの自然要因がもたらす楽しみと苦しみ
 8)道路や峠にまつわる民話、伝承、文学作品、絵画、音楽など
 9)道路や峠にまつわる歴史的な資料の蓄積とその重要性
10)その他「地域らしさ」を感じさせる慣習やライフスタイル

②人工景観
 人工景観について言えば、家屋や田畑などの人造物によって構成されるパースペクティヴな景観を、個々の峠道について克明に調査・評価し、重要なものについては文化財の指定・登録などを行なって社会的に認知を受けるよう努めることが求められる。
 1)家屋や田畑などの人造物によって構成されるパースペクティヴな景観
 2)旧街道そのものに付随する歴史的道路景観の重み
 3)擁壁、切通し、隧道、石畳などの道路関連施設の残存状況
 4)茶屋、お助け小屋などの付帯施設の現況
 5)道祖神、石碑、周辺の社寺仏閣や古墳などの文化財の散在状況
 6)道路沿いの街道集落、周辺の農業集蕗の様式と場所による相違
 7)周辺の田畑(棚田)や農業用水、ため他、樋や水車などの農業景観
 8)周辺の窯、煙突、工場、倉庫、発電用や砂防用の堰などの産業景観
 9)植林された森、並木、記念樹など人工的に手を加えられた森林景観
10)その他「地域らしさ」を感じさせる構造物、農業や産業のシンボル

③自然景観
 自然景観を構成する山岳眺望、流水、地層、植物、動物など様々な要素について、その存在の有無を個別に調査し、特筆すべきものについては観察を容易にし、貴重なものについては保護・育成しようとする方向性が求められる。
 l)山々の眺望や全山の紅葉などを遠望して得られる景観
 2)分水嶺、源流、渓谷、滝など河川上流部に特有な流水景観
 3)池沼、湿地帯など水と植生が混然一帯となった水辺景観
 4)露出した地層、断層、化石層、特殊な岩盤など地質学に関するファクター
 5)独立木、指定木、ユニークな林相など樹木に関するファクター
 6)花、紅葉、貴重種など美しさや珍しさの卓越した植物に関するファクター
 7)沿道に多い家畜、および、自然のカモシカ、猿、リスなど哺乳類ファクター
 8)バードウォッチの適所とか鳥の鳴き声が楽しめるといった鳥類ファクター
 9)蝶、ホタルなどの昆虫、魚から両生類までを含めた動物ファクター
10)その他「地域らしさ」を感じさせる自然、動植物のシンボル

④活用
 魅力をより身近なものと感じるためには、観光機能の充実(道の駅、遊歩道、イベント)、教育機能の充実(資料館、講習会、ガイドブック)などを通じて、魅力の付加価値を高める努力が求められる。
 1)資料館、博物館、美術館などの文化施設の存在
 2)温泉、観光施設、レクリエーション施設、スポーツ施設などの存在
 3)祭り、市、伝統行事、イベント、会合などの存在
 4)保存会、講習会、ボランティア活動など生涯教育関連の活動の存在
 5)名産品、伝統工芸、郷土料理などの存在
 6)案内標識、駐車スペース、遊歩道、展望台、キャンプ場などのファシリティ
 7)ガイドブック、ルート解説本、文化・自然誌の本などの各種出版物
 8)地元における道路と峠道に対する愛着度や関心
 9)個別の道路や峠道に関する開発の是非を含めた可能性の判断
10)その他「地域らしさ」を感じさせる活用のあり方



■峠の郷土史

 岐阜市立徹明小学校 校長・前 岐阜県歴史資料館 館長
 波多野 寿勝

 歴史、なかでも地方史(郷土史)を研究しようとする私は、必ず現場に立ち、現地を歩いて目で見、肌で感じて歴史を実感する。そこに住んでいない限り、短い・長いに係わらず旅をすることになる。文献史料を読み漁って歴史的事実認識と研究課題を漠然とつかみ、何とか当時の姿を思い描き、旧道・古道・峠や史跡・文化財を訪ね、その土地の人達に教えを請い、自分の足で歴史の現場を連結する。
 峠に、牛方組連中の名が台座に刻まれた牛頭観音像の石造物が祠られている。牛方の名前から時期や組連中の組織・規模、運搬した物資の品数など次々と新しい史実を追い求める手法が導き出される。点から線、そして面へと大きく広がり、地方の歴史を解明することとなっていく。そこに生きた人々の生活や思いを知ることができる。小さなことでも新しい史実を知り得た時の喜びは、それまでの苦しさが一度に霧散し爽快感さえ味わうことができる。



■峠の景観

 名古屋造形芸術大学 助教
 岡田 憲久

 峠は変化点である。接している2つの領域が、明確に異なるものとして認識される場合がある。その時、そこを通過するものは不思議な、魅力ある体験をすることができる。一つは峠を境とした自然環境の変化である。そしてもう一つは、2つの文化の変化点であることが認識できる場合である。
 峠に立った時、眺望が開け、別世界が体感される。峠を境に異なる文化環境としての集落の形態の違い、生産作物の違い、祭り等の習俗の違いが、それらの要素の総体としての景観の違いとして感じとれる場合である。



■峠の交通史

 足利工業大学 土木工学科 助教
 為国 孝敏

 三方を険しい山地に囲まれた北欧ノルウェーフィヨルド地方では、同じ民族でありながら集落ごとに風習や言語が異なるという。閉ざされた空間の中には固有の文化が育まれるが、その中で人間はまだ見ぬ地への憧れを高めるようになり、異文化との邂逅・交流のために技術を発展させる。
 「山の向こうに何かがある」。峠は人々の素朴な疑問から知恵と工夫で開かれてきた技術の蓄積そのものである。先人の積み重ねられた峠の開削によって、そこに見果てぬ地との人・物・情報の交流、すなわち交通が発生する。その交通による文化の交流が今日の地域を形成する礎ともなっているのである。
 いわば文化と文化の結節点たる峠の魅力を再認識してはいかがか。



■峠の地域連携

 (財)国土開発技術研究センター 技術顧問
 野村 和正

 峠の調査に関する幅広い活動は、住民の郷土に関する誇りを高めるとともに、地域全体の魅力を拡大し、個性豊かな地域社会の形成、更には地域活性化にも繋がる原動力を秘めていると期待され、誠に喜ばしいことである。
 わが国は、山国であり、生活圏が分断されているが、どの時代にも多くの苦難を乗り越えて、人の往来、物の輸送、文化の交流が進められてきた。その象徴でもある峠道は多くの魅力に溢れているので、リフレッシュのためにも、また「道の文化史」を知る上でも、峠歩きは楽しいものである。
 特に主要な街道筋等では、近代化以降、峠の克服に向けて数段階の道路改良が進められたが、それぞれの時代の道路が現在も機能を分担しながら活用されている例も各地にみられる。今後、ますます地域間の交流と連携が深まるであろうが、合わせて地域固有の魅力が問われる。
 地域の魅力がまた増えることを心から期待している。



■峠の植生

 岐阜大学農学部 教授
 林 進

 上がって下る峠道。低地から高地へと移行していく植生変化を追う楽しみは格別である。峠付近が風当たりの強い風衝地であれば、草原性の植生や低木の連なるかん木林を見ることもできる。また見通しの開けた峠であれば、遠景の山なみの植生が、高度と共に変化していく様相を観察できる。冬季ならば積雪とあいまって、針葉樹の常緑と落葉樹とのコントラストが、水墨画のような風景を演出してくれる。色とりどりの花々、決して一色ではない樹々の緑葉も、峠の旅の友となってくれることはもちろんである。時には行きつ戻りつしながら、植物が作り出す景観を楽しむだけの心と時間のゆとりをもつこと、それが植生の視点からの峠の魅力を満喫する秘訣といえようか。



■峠の地域文化

 岐阜女子大学 地域文化研究所
 道下 淳

 「昼は心配ないが、夜の峠はものの怪(け)が出る。」と筆者の祖母がよく言っていた。飛騨へまだ鉄道が通っていない昭和初年のことである。
 照明が油やロウソクだったころ、夜の屋外は真っ暗で、ものの怪が出てもおかしくなかった。しかし、山国だけに峠は、生活の道である。昼間の登場を遠慮したのかもしれない。民俗学者柳田国男氏は『山の人生』で、同様の話を紹介する。峯を越す峠には夜に怪事がある。別世界の人の足音を聞くこともあると。18世紀中ごろ成立の『飛騨国中案内』に、平湯峠の平湯側に「がたがた橋」の地名があり、越中立山の南門と記す。立山地獄へおちる亡者が渡った「がたがた橋伝説」の存在がうかがえる。
 現在、大きな峠にはトンネルが掘られ、道路改良も進んでいる。峠の怪事など忘却の彼方となった。

現代の鎌倉街道 (幻の鎌倉街道番外編)

美濃飛騨に残る鎌倉街道の残影を求めて縷々書いてきたが、では現代の鎌倉街道はどうなっているのだろうと考えた時、あらたな鎌倉道の姿が見えてきた。

中部縦貫自動車道は、北陸道福井北JCTから東に、勝山から大野を抜け、九頭竜ダムから油坂峠を越えて、東海北陸自動車道白鳥ICに接続し、飛騨へ北上し高山ICから安房峠を越えて信州松本JCTへとつなぐ総延長160kmの高速自動車道である。

現在(2023年3月時点)では、福井勝原ICから油坂IC区間と高山から平瀬料金所区間信濃中ノ湯ICから波田IC区間はまだ未整備であるものの、完成すれば北陸高速道と中央高速道をつなぐ、現代の鎌倉街道と呼べるのではないだろうか。

これは、旧鎌倉街道跡と呼ばれる飛騨越え(安房峠または、野麦峠越え)ルートであると言える。

岐阜県のHPから転載の計画図




とすると、美濃越え(東山道神坂峠越え)ルートはどうなのだろうと考えると、あったありました。
濃飛横断自動車道がそれである。この道は、郡上八幡から東に堀越峠をトンネル貫通し、和良を抜け下呂へと至る道路である。
現在はまだ部分開通の状態だが、23年3月には堀越峠工区の直轄調査結果が発表され、この工区が完成すると、長良川流域と飛騨川流域地域をつなぐ最短ルートが完成することとなる。
さらに下呂から南東に抜け、中津川(リニア駅開設予定)につながれば約80kmの道路となり、まさに現代の鎌倉街道(美濃・神坂峠越え)となるのである。

国土交通省プレスリリースより転載

まあ、これが完成したからと言って何か大きく変わるわけではないだろうけど、現代の地政学や経済学を土台とした道路計画が、意図せず中世の鎌倉街道と同じルートになるという事が興味深いのである。


幻の鎌倉街道を考える④

前項、幻の鎌倉街道を考える③では、ロマンに走りすぎてしまったので、ここで軌道修正する。

近世には、修験者をはじめ遊行僧、繭や藍など仲買や行商者、旅芸人などが頻度にこの道を通っていたし、もちろん近隣住民も通う道であったに違いない。

繰り返すが、川沿いの道は崩れやすく、また河川が山にぶつかるところは渡渉危険な歩危(崖)となり、う回路を作るか対岸へ橋を架けるしかなくなるため、治水技術が発達する近代以前には、大がかりな架橋や掘削は(幕府や藩が管理する)街道以外では採用されなかった。

それとともに主要街道を通ることは、関所や口番所を通過することになる。ここを通過するためにはその理由や許可書(通行手形)が必要となり、公的な移動以外の庶民の活動にとってははなはだ不自由な障壁となる。また、川を渡し舟で渡る場合なども関銭などが必要となり旅行者にとっても過剰な負担となっていた。

ゆえに、物流や移動にとって安定した道は峠を越える山道や尾根道であったのだ。人がすれ違うのがやっとの幅のこの山道は、運搬を支える牛馬の道でもあり、安定した峠道などは馬喰が貨物を背負った牛を放しても麓まで運んでくれたという古老の伝承も残っている。

前掲の『峠の歴史学』の著者、服部英雄氏によればこうした古道には流通・軍事・信仰の三つの意図があったという。
生産者と消費者を結ぶ流通の道、軍事拠点と前線を結ぶ軍事の道、そして神仏に救いを求めて歩く信仰の道であるという。信仰の道はどんなに険阻であろうとも、人が登り下りできればそれで支障がないが、軍事や流通となると、牛馬が通える条件が必要となるからだ。

本題に戻ろう。
近世にこの鎌倉街道を利用した歴史的事象として一つあげるとするならば、江戸時代の宝暦年間に郡上藩を揺るがした"宝暦騒動"と称された農民一揆が起こった。

藩の財政悪化により年貢の徴税方法を改め、より厳しい課税が示されたことに惣村が反対し、郡上一円の農民の争議となった。
村ごとに代表者を立て、藩役人に秘密裏に集まり取り組みの方針を協議し、最終的には藩への申し立てから、幕府への駕訴、箱訴へと発展し、農民たちは江戸への訴人を立てその目的を達成した。
その結果当時では類例を見ない、藩主(金森氏)の改易(領地没収取りつぶし)、訴人の獄門という厳しい判決となり、江戸の町民たちを驚かせたという事件となった。

この争議の初期には、郡上各地の農民の代表が何度となく話し合い対策を協議したといわれている。もちろん藩役人にその動向を知られることは即弾圧につながるため、集まる場所や時刻を取り決めた秘密裏の会合であった。

当時藩内には123の集落が存在したが、それらの集落から人目を避けて集まるためには、集落間に張り巡らされた峠道や裏道を利用しており、東西の集落をつなぐこの鎌倉街道も当然利用されていただろう。

*この騒動を記録した歴史文書の中に、鎌倉街道を利用したという記述が明確にあるわけではないが。

⑤につづく、




 

 

幻の鎌倉街道を考える③

いにしえ、この街道を通っていた人々の足音をたよりにその姿を想像する。
ある意味それは、歴史ロマンである。

近世の渡世者の姿から、山を巡る修行者や修験者の姿が浮かび上がってきた。
江戸期に全国を修行・巡礼していた旅僧円空もその一人だったに違いない。

修行僧・修験者がこの地域を巡る最大の理由は、白山信仰の聖地であることが第一の理由となるだろう。

白山信仰は霊峰白山を中心に開けた、美濃馬場、加賀馬場、越前馬場の三霊場を中心に開けた巨大な信仰圏である。
白山の南面であるこの美濃・東海は美濃馬場の信仰圏であり、その範囲も寺社数も三馬場の中でも最大である。
その中心を為すのが白山中宮長滝寺(長滝白山神社)であった。
その信仰の北限は飛騨、南は美濃、尾張、三重(北部)、三河遠州へと広がっている。長瀧寺の開基は、718年(養老2年)勅命により越の大徳泰澄により法相宗の寺院として創建されたと伝えられ、828年(天長5年)天台宗に改められ三馬場の一つとして位置づけられたという。

美濃馬場への参拝路は禅定道と呼ばれ、美濃禅定道は長良川に沿って北上する道を言う。
白山信仰・白山修験の徒は、古代から中世のかけて周辺の山々を越え白山禅定をしたに違いない。

西は比叡山、南は伊勢・熊野、東は御嶽山秋葉山から山尾根を渡り峠を越えて修行・廻国の徒がこの道を通過していただろう。

木食行や巌籠りなど、厳しい廻国修行を続けた円空は自分の経歴や出自をも語らないという修行者であるが、ある時世話になっている僧侶にそのを由来を尋ねられた時、それには答えず『我、山嶽ニ居テ多年仏像ヲ造リ、ソノ地神ヲ供養スルノミ。汝ソノ地ニ至リ是ヲ見ヨ』とだけ言ったという。
円空深山幽谷を巡り、嶽に籠りその地の神仏を彫りだして歩いた。
その地に残された円空仏だけが、円空の歩いた足跡を物語っているのである。

鎌倉街道として知られたこの山道を円空は幾度も駆け抜け、飛騨へ、富山へ、関東へ東北へと旅立ったのであった。