幻の鎌倉街道を考える①
服部英雄氏の著作『峠の歴史学』を読んで、その中にも記述のある鎌倉街道について改めて考えてみたいと思う。
以前から郡上の北西部の地域に『鎌倉街道』という山越え道の伝承が残っていることについてこのブログの中でも部分的に触れていたが、この書物にある記述に触れ、改めて体系的に考えてみたいと思うようになったのだ。
本書の中で書かれている、鎌倉街道についての記述の特徴は、
①全国的にみて、鎌倉街道ないしは鎌倉道と伝わる道は決して多くないが部分的に偏在し地名として残っている。
②これまでの調査は鎌倉から東京、埼玉地域が中心であり、他の地域ははっきりしない。
③そんな状況を踏まえ、飛騨と信濃を隔てる北アルプス南部の乗鞍周辺の峠道と、美濃郡上から東西に走る峠道に残る鎌倉街道の伝承をフィールドワークしている。
④乗鞍周辺を越している鎌倉街道の伝承では、西に飛騨を越えて越中に抜け、東に中山道塩尻に合流している峠越えの道である。
⑤美濃郡上に残る鎌倉街道の伝承では、東西を走る峠越えの道で西は越前穴間に抜け、東は飛騨街道から南北街道で中津川に抜けるルートと考えられる。
⑥いずれも部分的な伝承として伝えられており、近世以前にそのような街道が続いていたという事実は明らかにされていない。
⑦ただ、金森法院長親が高山に普請した野麦街道などの新たな道路を整備した時に、それ以前利用していた峠越えの道が脇街道となり、古い道という意味で鎌倉街道との呼称が残った。
⑧調査の結果、鎌倉街道とされる道は峠道や尾根道が多く、逆に谷を越える道は少ない。 軍用道路としての機能に必要な牛馬(牛は谷越えを嫌う)による移送が前提となっているようだ。
これらの記述が明らかにしているのは、美濃、飛騨、信濃、越中をつなぐ鎌倉街道は、東国と西国の間に横たわる日本アルプスの巨大な山塊を、東西に最短で抜けるための軍用道路であるようだ。
近代の目で見ると、平野の多い海岸沿いの道(東海道など)をなぜ使わないのかと不思議に思うが、水害や増水で渡れない下流の大川では、通行不能となる可能性が高く、軍事利用にできるようになるのは近世近くになってから待たなければならなかったのだ。
その2につづく・・