いにしえ峠道

既に記憶からも遠くなり忘れ去られた峠越えの山道を歩いてます

東俣峠(大和町上古道旧東俣村から明宝寒水への峠)

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東俣峠は国土地理院地図にも記載してある峠道で、舗装路で峠越えすることができる。

今回はまだ雪の残る古道跡を歩いてみたため、旧道あとをたどる探索はほぼ不可能ということで、歩きやすそうな場所をたどって峠まで出ることにした。

いずれにしてもこの時期は車道も積雪のため通行することはできないが(除雪対象道ではないため)今年は積雪も少なかったため歩いてみた。

ほぼ直登に近い所から峠を目指したが、さすがに峠近くは900m越えだったため積雪も50cm程残っていた。

車を停めた場所から1時間半ぐらいで峠道(新道)にたどり着いた。
峠の境界には地蔵も祀られていた。

峠から先に新道を少し歩いてみたが、面白そうにもないので引き返し、峠から尾根筋を南下してみる帰路を歩いた。

峠から尾根筋に取りつき尾根を100m程歩いたところに突然巨石を発見!
どこからか転がり落ちてくるような場所でもない尾根筋から少し外れた場所に高さ5m幅3.5m平方もあろうかと思われる、異様な巨石だ。
下から見上げたら、巨大な入道の顔のようにも見えたので、入道岩と命名した。

巨石のあるヒノキ林はきれいに間伐枝打ちされていたため、誰かは気づいているだろうが、巨石の存在はたぶん公にはなっていないようだ。

入道岩を堪能後さらに尾根筋を南下し、車を停めた谷筋を検討して西への尾根筋を下った。
斜面は積雪もあり危険そうな場所もあったが、ちょうど都合よい辺りに出ることができた。

いずれ、雪のない時期に古道調査を改めてしてみたい。



 

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以下 「美濃の峠」(平成11年岐阜国道事務所発行)から引用

 大和町明宝村を結ぶ、現在県道318号寒水徳永線に位置する峠である。標高910m、大和町との標高差は360m(大和町上古道集落との標高差)、明宝村との標高差も360m(明宝村寒水集落)である。旧道は、現在はほとんど使用されておらず、一部が残っているにすぎない。いちばん峠に近くに住む人に訪ねると、旧道は現在の道路の上部を通っており、道標、地蔵などは現在の道路の際に下ろされたと聞く。峠の頂上部約1㎞は舗装されていないが、後は簡易舗装も含めて改修されている。自動車の通行は可能である。頂上付近は、町有林が植林されており干害防備保安林の指定がある。

 


2 峠の名前

 国土地理院の地形図(2万5千分の1)には「東俣峠」の記載は認められる。現地の人は、大和町側で「寒水峠」、明宝村側で「東俣峠」という呼び方をしている人も確認された。峠を越えた場所の地名を峠の名としているようである。
 東俣村は、現在大和町古道になる。(日本歴史地名大系21 「岐阜県の地名」平凡社

東俣村
 上神路村の北、古道川沿いの段丘山地にある。北東村境に東俣峠がある。西は西俣村。東又・東股とも書く。正保郷帳では田方149石余・畑方154石余。寛文9年(1669)の内検名寄帳(松井文書)によれば耕地24町余、家数51、うち1町歩以上の高持5、5反ー9反14、4反以下32。宝暦10年(1760)の内検では3町8反余増加している(「村免定」和田文書)。村財政困窮により、貞享元年(1684)八幡本町(現八幡町)徳兵衛から7石、宝暦3年藩から71俵、同4年7月と12月に母袋村島崎浄円から27両と7両をそれぞれ村借している(「借用証文」島崎文書)。幕府領時代の元禄6年(1693)当村は笠松代官所(現羽島郡笠松町)に対し、米作不良なので年貢は全額金納にしてほしいと願い出た(「年貢金納願」和田文書)。なお同5年年貢課税が定免法から検見法に変わり、同9年には定免時に比して24石余増となっている(「村免定」同書)。宝暦6年の郡上郡村高覚帳(鈴木文書)では家数52、うち水呑1。
 同7年の立者寝者人別帳(則次文書)によると、宝暦騒動における立百姓48・立水呑1。
 同8年の箱訴願人6人の1人太郎右衛門、江戸との飛脚を務めた三郎右衛門は当村の者、三郎右衛門の子孫則次家に宝暦騒動関係の多くの資料が残る。安永2年(1773)の郡上領留記(大西文書)によれば板橋7・井水7、照願寺(現真宗大谷派)がある。小物成は紙舟役・紙7束2帖と帳紙7帖・真綿など。
 天明4年(1784)他村へ出入足を以後5年間免除の請願書を出している(「他村出入足免除願」和田文書)。寛政11年(1799)日常生活の倹約を申し合わせた東俣村定式(同文書)を定めている。天保8年(1873)の郷村高辻帳(和田文書)では高299石余、ほかに改出新田5石5斗余・切添新田2斗6升余。明治5年(1872)の村明細帳では家数68人数450、うち医師2、馬39。同8年上紙路村と合併して古道村となる。
 この峠は、東俣村字五本栃から、寒水村字松本及び宮ノ上に至る道にある峠で、東俣村と寒水村の境界で、標高約958mである。峠に上るとたちまち展望が開け、はるか東には御嶽、東北には槍ヶ岳が望見できる。足下を見下ろすと、寒水川に沿って寒水村の家々がひっそりと静まっている。峠には南に向かって、小さな石地蔵(高さ53cm、幅26cmがある。建立年月も建立者名もない。