いにしえ峠道

既に記憶からも遠くなり忘れ去られた峠越えの山道を歩いてます

檜峠旧道

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檜峠は美濃白鳥から越前境を越えて九頭龍川の源流にある石徹白村に行く旧道です。

昭和33年に現在の県道が敷設されるまでは山道の旧道を歩いて越えるしかありませんでした。

 

しかし、この道は古来より美濃白山信仰の登拝道であり美濃禅定道とよばれ、往古より沢山の参詣者が往来する道でもありました。

 

県道は反時計回りに尾根を越えながら檜峠に向かいますが、旧道は入り口の前谷集落を過ぎて時計回りで山道を登ります。

県道から離れて旧道に入っていく入り口には、旧美濃禅定道の標柱があります。

この坂を登っていくと前谷の棚田が広がる台地に出ます。

棚田を越えて更に行くと林道から谷筋に入る山道になります。

ここには、禅定道の旧跡である床并(とこなみ)社跡があり、近くには立派な栃の巨木が立っています。 

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ここからが峠道の森への入口となっていて、植林の林に覆われた今日は昼でも薄暗い感じですが、往時は東からの太陽が谷を照らし、朝日で明るい場所だったようです。

 


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 そこから先は傾斜のきつい山道となります。尾根筋に出るとすぐいっぷく平と呼ばれる茶屋峠にでます。

  

ここには、江戸時代の石徹白騒動により村を追い出され命を落とした村民の慰霊を供らう地蔵が祀られています。

峠の谷下方には、アラクラの滝があるのですが、樹木の色濃い季節には見つけるのは困難です。

 

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さらに山道を行き中の峠を越えて谷へ下ると沢を渡り少し歩くと毘沙門岳の登り口との分岐があります。

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もともとの旧道の峠はそこから山裾を登った場所となります。

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現在はその旧峠を含む斜面がゴルフ場の敷地内になるため、登山者は県道の桧峠から山道を経て登山路分岐点にでなければなりません。

 

旧峠には、今も立派な峠の祠があり往時の姿をとどめています。

 

ちなみに、峠から石徹白集落に抜ける旧道もあったのですが、現在は県道とスキー場の開設により一部は不明になっていますが、スキー場から先は大体残っています。

 

 

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以下、「美濃の峠」(平成11年岐阜県国道事務所発行)より引用

ひのきとうげ

桧峠

所 在 地:白鳥町石徹白~白鳥町前谷

 


調査委員:熊崎 文男(北濃小学校 教諭)、熊田 一泰(白鳥中学校 教諭)

 

1 峠の名前の由来と変遷

 桧峠に上ると一挙に視野が開け、福井県境に昆沙門岳(山の向こう側、国道158号沿いには岐阜県内でもっとも早く開業したスキー場、油坂スキーパークがあり、桧峠側の斜面には、白鳥高原スキー場が位置している)が見える。また視線を右の方へ回していけば、白山、水後山(ここにはウイングヒルズ白鳥リゾート・スキー場がある)、大日ケ岳(北斜面にはダイナランド・スキー場がある)、鷲ケ岳(鷲ケ岳スキー場やホワイトピアたかす・スキー場がある)、そして白尾山(スノーパークしらお・スキー場がある)などの山々が一望できる。さらに鷲ケ岳や白尾山の向こうには日本アルプスの山々も霞んで見える。(桧峠からすべてのスキー場が見えるわけではない。)

写真1:前谷より桧峠を望む


 このように桧峠は、美濃・飛騨・越前が一望できることから、昔は、三国峠(さんごくとうげ)とも呼ばれていた。(越前国八郡村高絵図・福井県立大野高等学校所蔵に記されている)
 桧峠と呼ばれるようになったのが、いつ頃かは定かではないが、地元の人の話では、この峠のあたりは杉よりも桧が育つのに適しているということである。桧も苗木のうちは肥えた土地の方が育ちが良いが、大きくなるうちに枯れてしまうことが多いらしい。桧は岩の上など、やせた土地の方が大木に育つそうである。桧峠付近は岩も多く、やせた斜面であったことから桧が多くあったらしい。現在も峠の付近には植林した桧が何本か見られる。
 峠には地蔵様が2体安置されていて、一体は「明和二乙酉年四月5日、南無阿弥陀仏、願主中石徹白」と記され、石徹白、中在所の八郎右衛門が子供が授かることを祈願して建立したといわれる。もう一体は近年のものである。地蔵様の反対側に楢の木が2本立っていて、この木に履き替えた古い草鞋を投げ掛けたり、休んで食事をした人たちが食べた缶詰の空缶を面白半分に沢山ぶらさげていたそうである。いつもそうなっていたため、この峠を「ワラジ峠」とか「ガンガン(空缶のこと)吊し峠」と呼んだこともあったらしい。
 現在は、この楢の木はない。白鳥高原カントリークラブ(冬は白鳥高原スキー場)が建設された時、桧峠を取り付け道路が通過したので、楢の木は伐られ、地蔵様はお堂を新築し現在の地点へ移動したのである。峠も埋め立てられたので、昭和55年夏、地主上村五兵衛氏が旧道跡を偲んで「旧道桧峠」と揮毫し、岩戸建設がお堂と共に石碑を建立している。それゆえ、旧桧峠というのは、現在の県道石徹白前谷線の桧峠(自主運行バスの桧峠停留所がある)よりも、白鳥高原カントリークラブの方へ少し上がった所にあったのである。

 

 


 

2 峠にまつわる民話、伝説、文学作品、絵画、音楽など

 桧峠にまつわる文学作品といえば、まず岸武雄著の「いとしろへの道」が思い浮かぶ。赤座憲久氏は、この本の解説の中でこう書いてみえる。(解説より抜粋)
『では、岸がなぜ石徹白を書こうとしたのか。それは、たんに秘境に心ひかれたというだけではない。民俗学柳田国男がなんども調査におとずれたというほど、貴重な実態が最近までのこっていたそうだ。「なにしろ中世の社会組織が明治の初めころまでのこっていたのは、本土ではこの石徹白と奈良県の十津川と、そのほか指で数えるほど」なのだ。無主無従という村民自治が、民主主義の原型として、素朴な形で生きていた。
 そこで暮らしているのは百姓ばかりだが、頭社人、平社人、末社人というふうに、階級が3つになっていたというのも、その村の大きな特質の一つといえよう。それに当時民衆の権力に対する抵抗は、たいてい敗北しているのに、石徹白の宝暦騒動は、庶民が勝っているという事実。これはやはり作品を書く動機に十分なりうるはずである。さらに岸をして石徹白へ強くひきつけた要因は、年ごろの娘が山仕事に出かけるとき、化粧をしていくというのである。そのことについては諸説があって、神の森ではたらくのだからとか、山ではたらきながら若い男女の語らいの場ができるからだとかいう。そういうこともあろうが、岸の見解は、近代化によって労働と娯楽が分離してしまったが、もともとは、表裏一体だったというのである。
 そんな石徹白という村での宝暦騒動の話を、慶応3年生まれでその年92歳の老婆が、子供のころに聞いた話として語る。<わしがはじめて化粧して宮山へ出かけたのは、16の年の春、ツツジの花のさくころじゃった。>というふうに語りはじめる。もとは老婆の祖母の語りだから<わし>というのは老婆の祖母のことで、名前はミサという。そのミサが、娘のころ宮山の下草刈りで喜平という若者に出会い、二人の心は深くひきあうようになる。一方、豊前という神職がかってにふるう権力の横暴に対し、村民結束して5年間闘いぬいて勝つのだが、その闘いのなかで、喜平はたいへん重要な役割を果たす。…』
 この作品は岸武雄氏の創作が多く入っているので、歴史的事実そのものではないが、この作品の中に「桧峠」は何度も登場する。
・12P「町の役場員が出むかえ、こちらまでご案内いたします。とちゅう900メートルの桧峠をこえねばなりませんので、ジープにのっていただきますが、よろしくごしんぼうをねがいます。」
・18P「峠です。~略~あれが大日岳、あれが毘沙門岳、あれが杉後(すいご)岳…」
・83P「治郎兵衛さのゆくさきの上野って村は、わしは知らん。けど、飛騨とのさかいの村というからには、桧峠をこえ前谷の集落へ出てからきけばわかるやろと思ってな、」
・104P「師走(12月)といえば、石徹白はもう雪のなか。桧峠へむけてのひとすじ道を、くる日もくる日も牛のように追われていくるす家族の群れ一」
・114P「桧峠へさしかかりスギ林のなかへはいると、雪は深うなったが、風はすこしおさまった。さすがに、さむらい衆もほっとしたのか、ここでやすませてくれた。」
・116P「ちょうど、峠を半分ほどくだったところじゃった。まえの衆のかん高い悲鳴に、びっくらこいて顔をあげると、ひとりのじっさまがさかさまになって、道下へころげおちるすがたが見えた。」
・122P「あそこが桧峠じゃ!」だれかの声にあわててそちらを見るとな、まっ白な峠がなにごともなかったように、美しゅうかがやいとる。ああ、あのむこうが石徹白かと思うと、胸がしめつけられるようじゃったわい。」
・210P「桧峠の頂上で、わたしはジープからおりてみたかった。朝ぎりにねむる石徹白を、しみじみともういちどながめてみたかった。」
・215P「秋はね、桧峠がお花畑のように、いろんな花がさきみだれるのやと。峠からすこしよこ道へはいって村へおりてくるころには、かかえきれんほどの花をつむことができるのやと。」

「いとしろへの道」に挿入されている地図


 まだ、他にも峠が出てくる場面はあるが、やはり何といっても、石徹白の人々が村を追われ、冬の桧峠を越えるシーンが一番私たちの胸を打つ。
 石徹白宝暦騒動というのは、実際にあったできごとで、現在も、前谷から桧峠に向かう旧道の中ほど、「茶屋峠」には地蔵が安置されている。その地蔵には「宝暦12年4月吉日、願主当村長滝寺」と刻まれている。宝暦年間の石徹白騒動のとき、金森藩によって所を追放された500人の社人とその家族たちが、藩の手代たちが振りかざす刃に追われながら年末の雪の降りしきる中を蓑笠も着けず、着のみ着のままで必死の思いで桧峠を越え各地へ四散した。その時、命を落とした人々を供養して建立されたものであるという。
 またこの本では、桧峠を越える時、町のジープが使われている。1957(昭和32)年、県道石徹白前谷線が全通してからのちもしばらくの間、1日に何往復かする町のジープが石徹白の人々の足になっていたという。そういう意味では、当時の様子が思い起される1シーンである。
「いとしろへの道」の他にも、桧峠がよく出てくる本としては、地元白鳥町の上村俊邦氏の書かれた「白山への道いま昔」がある。桧峠を紹介するこの文章も「白山への道いま昔」を大変参考にさせていただいている。


 

3 藤原秀衡、石徹白に仏像をまつる

 これは、かなり確かな言い伝えである。石徹白中在所の大師堂には、国の重要文化財に指定されている仏像「虚空像菩薩」がある。この仏像は平安時代の末から鎌倉時代にかけての作品で、古くから藤原秀衡が寄進したと伝えられている。また石徹白には、秀衡がこの仏像のおともに送ったといわれる「上村12人衆」という武士団の言い伝えがある。
 藤原秀衡平安時代に栄えた藤原氏の一族で、東北地方を治めるために都から派遣された奥州藤原氏の三代目であり、現在、岩手県平泉の中尊寺にミイラとしておさめられている。上杉家系図によると秀衡が石徹白の白山中居神社へ仏像を贈ったことが、はっきりと記されている。明治になって神仏分離の命令がでたため、虚空像菩薩は現在の大師堂へ移されたのである。
 また白山之記には、1163(長寛元)年、秀衡が阿弥陀如来の仏像をつくって白山の奥の院、大汝ケ峰におさめたという記録がある。奥州平泉の中尊寺毛越寺には白山の神が祭られており、秀衡が白山信仰と深い関わりがあったことを示している。桧峠を秀衡の家来衆に守られた虚空像菩薩が通ったということは十分に考えられる話である。
 また一説によると、源義経が兄頼朝に追われ、奥州に落ちのびる途中の一時期この石徹白に潜んでいたという言い伝えもある。義経の家来が、現在の大和町の田代という山奥に逃れて住んでいたという話もあり、奥州平泉の藤原氏が石徹白の白山中居神社を大切にしたことからも、あながち、根も葉もない噂とは限らないのである。
 白山信仰を開いた泰澄大師と桧峠の関わりも深いが、これは、「白山信仰と桧峠」で述べる。


 

 

4 峠にまつわる出来事

4.1 白山信抑
 「白山信仰」を語らずに、桧峠を語ることはできない。白山は、加賀、越前、美濃、飛騨、越中にまたがってそびえ、主峰「御前峰」の標高2702m、中部山岳以西では最も高い山である。冬の西北季節風をまともに受けるため積雪が多く、周囲に高い山がないのでその白い山の姿は一際目立つ。
 白山の美しさは古代の人々の心をとらえ、女神の山として畏れ、敬われてきた。初めのうちは山そのものに不思議な生命があると信じられてきたが、だんだんと山には別の神がいるという山の神の信仰が始まり、白山を中心にして日本中に白山信仰が広まったと考えられる。
 白山への道を開いたのは、泰澄大師であると伝えられている。泰澄大師は今の福井県に生まれ、14歳の時、仏のお告げをうけ、一人山奥へ入り修業を積んだ。717(養老元)年、泰澄が36歳の時、再びお告げをうけ、白山登拝の旅にでた。泰澄が白山へ登る道を見付けるため九頭竜川の近くで祈念をしたところ、現在の福井県、平泉寺が白山の登り口であるとお告げをうけ、そこを中居とした。頂上近くの翠ケ池で祈念していると白山の神は九頭竜の姿であらわれた。さらに祈ると女神に姿を変えた。泰澄は「白山の神はイザナギノミコトの姿をしているが本当の姿は十一面観世音大菩薩である」とひらめいた。泰澄は白山で719年まで3年間、千日の修業を積んで下山した。その頃は神仏混仰の時代であり、人々は神と仏は同じで、神は仏の仮の姿であると考えられていた。
 美濃地方には別の言い伝えがある。泰澄大師は717(養老元)年6月、現在の高鷲村鮎立助右衛門の案内で現在の大日ケ岳に登った。その夜、夢に大日如来があらわれたことから、泰澄はここに大日如来をまつり、現在の山の名前になったという。泰澄は尾根伝いに白山に登ろうとしたが、それはかなわず、蛭ケ野から白鳥町の前谷へ下りて、御船西願坊の案内で、桧峠を越して、石徹白から白山を目指した。現在の大師堂の下の川を渡り、上在所の白山中居神社を足掛かりにして、銚子峰、一の峰、二の峰、三の峰をへて別山に登り尾根伝いに白山に登ったと伝えられている。
 白山へ登る道について記した「白山之記」には、「832(天長9)年、美濃、越前、加賀の三方から白山まいりの馬場が開け、盛んに参詣した」という記述がある。平安中期には、修験道が盛んになって夏になると金剛杖を手に白衣を着た行者をはじめ多くの信者が参詣をした。そのにぎわいは「上り千人、下り千人」といわれるほどであった。【「郷土誌わが町白鳥」「白鳥町史」参考】
 美濃馬場(みのばんば)の意味は正確には分からないが、一般的には白山へ参詣するために馬に乗ってきてもこの地点から乗馬禁止となり、いかなる人もここからは徒歩で登らなければならない場所と言われている。もう一つは、白山信仰の高まりにつれて登拝する人が増えるとともにその集合地となった山麓の特定場所ではないかと言われている。馬場は、越前馬場、加賀馬場、美濃馬場の3箇所あり、美濃馬場として「白山長滝神社」がすごい隆盛をみせたのである。
 白山神社は全国に分布しており、その数は2716社にもおよぶ。その中で岐阜県には525社あり、郡上郡にも65社分布している。

「郷土誌わが町白鳥」に挿入されている白山まいりの地図

 

4.2 峠の遭難事故
 桧峠に向かう「七曲がり」という場所で、悲しい遭難事故が起きている。
 昭和13年1月2日、当時石徹白の有力者であった上村嘉重郎さんが、年末に兵隊に入隊している長男に面会するため石徹白を離れていた。年が明けて2日、ようやく前谷までもどって来られた。その日は大変な雪降りで、番所の近くの人も「今夜は泊まって、雪が落ち着いたら桧峠を越えさっせ」と引き留めた。しかし嘉重郎さんは「年末も家族と一緒に過ごせなんだで、皆がまっとるじゃろうで行くわい」と言って出掛けた。出発してから間もなく天候は更に悪化し、遂に吹雪になったので前谷の人たちは心配していた。
 石徹白では、いつになっても帰宅しないので村中大騒ぎとなり、捜索が幾日も繰り返された。しかしその年は豪雪だったので遂に発見できなかった。ようやく春になり雪もかなり融けた頃、子供のみやげに買われた帽子が見つかったのがきっかけで、もうすぐ峠という6つ目の曲がりの、峠では一番風のあたらない南東向きの沢で発見された。峠を目前にして帰らぬ人となられたのである。事故でなくてもこの峠で息を引き取った病人や、手遅れとなって亡くなられた人は少なくないという。【「白山への道いま昔」参考】

4.3 石徹白騒動 【「郡上の歴史」「白鳥町史(通史編上)」参考】
 「いとしろへの道」でも少し述べたが、江戸時代の宝暦年間、石徹白を舞台にして、藩を改易にまで追い込む大きな騒動が起きている。越前の国(福井県)石徹白(現在の石徹白は越県合併岐阜県になっている)には泰澄大師が社殿を修復し境内を広げたとされる白山中居神社がある。宝暦の頃、この宮の神主は石徹白豊前で、宮のことだけでなく村の政治も行なっていた。神頭職(ことうしょく)は代々上杉家で、当時は杉本左近がつとめ、神殿を守り祭りなどの神事を行なっていた。
 当時、全国のお宮は、すべて京都にある吉田家・白川家どちらかの指図を受けた。豊前は吉田家、左近や村人たちは昔から伝えられている白川家と対立した。この裏には豊前が宮山の木を相談なしで切るなどの不満があった。しかし、これが直接の原因でなく威徳寺の問題がきっかけであった。この寺の住職恵俊は上村治郎兵衛と相談し、威徳寺を高山照蓮寺の掛所(位の高い支院)にしようとした。信者から多くの寄付金をもらい10年以上もかけて立派な本堂をつくった。掛所にするには京都本願寺の許しがいるので、恵俊は神主も藩役人も賛成とうそを言い、1752(宝暦2)年、掛所になった。
 豊前はこれに怒り、京都の吉田家に行き、郡上藩に調べてもらうように頼んだ。間もなく金森藩の奉行は手代に足軽をつけて石徹白へ遣わし、社人を集めて、今後は何事も豊前の命に従うよう判を押させようとした。しかし誰もこの命令に従わなかった。奉行は腹を立て有力社人を城下に呼び出し、判を迫ったが聞かないので宿預けにした。50日が過ぎ安養寺の住職の仲立ちで帰村を許された。
 宝暦4年3月11日、藩の役人が石徹白へ来て吉田家の命令であると言って上村治郎兵衛を鷲見上野へ追放した。豊前は村の山の木を乱伐して問題になったが社人の非難にも耳をかさなかった。社人たちは藩に訴えたが豊前を非難するのかと叱られた。郡上藩では正しい裁きはできないと、宝暦4年8月、杉本左近ら3人は江戸の本多寺社奉行へ訴え出た。本多金森家は親しい間柄であったので訴状は金森家に回され左近らは郡上へ帰された。藩は左近らに手錠をかけ牢に入れた。宝暦5年11月左近らは郡上から追放された。それから間もなく反豊前派の数十人も追放した。藩は豊前の要請で反豊前派の石徹白の留守家族も飛騨、白川へ追放した。人々はせめて雪の消えるまで待ってほしいと願ったが、子供から年よりまで追放された。着のみ着のまま素足で追い出された者もいた。足軽たちに追い立てられ雪の中を桧峠を越え白川村まで歩いたのである。中には谷に落ちた老人、凍死した子供もあった。これが11月の末から3週間も続いたという。後の箱訴状によると追放されたのは96軒500余人で当時の石徹白の3分の2にあたるという。
 このできごとは先に追放され芥見の援助者のもとで静養中の左近の耳に届き、左近は京都の白川家を頼るとともに宝暦6年8月、江戸へ行き、老中松平武元に訴えた。しかしまた訴状は本多寺社奉行に回り、調べは進まなかった。こうした間に追放された社人の中で飢え死にする者が40人を越えた。こうした中で豊前の片腕と言われた妹婿の上杉左門が妻子と別れて追放された社人の仲間に入った。宝暦7年11月、再び本多寺社奉行に訴えたが取り調べは始まらなかった。宝暦8年6月初め久保田、森の2人が江戸へ行き、3度目の箱訴でようやく呼び出しがあり、老中酒井忠寄の命で幕府による裁判が始まったのである。吟味の結果、石徹白豊前は死罪、金森藩は改易、幸行根尾死罪の厳しい判決が出た。箱訴人たちは急度叱りなどであった。追放されていた社人たちの願いは通じたのである。


 

5 峠を挟んだ里の暮らし

5.1 石徹白郵便局長を長く勤めた石徹白忠さん(昭和8年生まれ)の話

 明治35(1902)年、私の祖父が初代の郵便局長となって、石徹白に郵便局が開局しました。その当時は福井県大野郡石徹白村でした。父親も郵便局長でした。私は昭和23(1947)年、郵便局へ入り、昭和44(1969)年から平成6(1994)年まで25年間、郵便局長をつとめました。
 昭和33(1958)年、福井県石徹白村が岐阜県白鳥町へ越県合併しました。岐阜県郡上郡白鳥町石徹白になりました。それに先立ち昭和32年には県道前谷~石徹白線が全通しました。連絡車として町のジープが日に3往復ほど通りました。一時雪上車が使われたこともありましたが、勝手が悪く、すぐに使われなくなりました。ジープには、6人ほどしか乗れませんし、便も少ないので石徹白の人たちは桧峠から旧道を歩いて白鳥の町へ出るのが多かったです。
 その当時、郵便屋さんが活躍したのは冬です。普通の人が雪の中を、上りはかんじきを履いてスキーを担ぎ、下りはスキーで石徹白から前谷まで行こうと思うと、3~4時間はゆうにかかったと思います。その当時は長靴にベルト金具のスキーでした。郵便屋さんは、2時間半ぐらいで行けたと思います。郵便屋さんには官品としてあざらしの皮が支給されました。スキーの裏にあざらしの皮をつけると滑り止めになって、スキーを履いたまま雪の坂道を登ることができました。片方の手にストックを持ち、もう片方の手に行灯を持ちました。
 郵便屋さんは、だいたい朝5時前後には石徹白を出発しました。行灯に灯をともして桧峠まで行くと、だいたい峠の辺りで夜が明けてきます。行灯を峠の木に掛けて前谷に向かって下りていきました。峠を越えようと思う村人はまず郵便局に電話をかけて「郵便屋さんは出たか?」と尋ねてから家を出たと言います。郵便屋さんがまず道をあけてくれるからです。また郵便屋さんが行けないような吹雪の日には、峠を越えないようにしたのです。郵便屋さんは前谷から北濃駅へ向かいました。北濃駅には郵便車が来ていたので、そこで郵便物を受け取り、石徹白から持ってきた郵便物を渡したのです。
 電信電話業務は、昭和14年開始ですから父の代です。その頃、桧峠を石徹白の方へ少し下りた所に有線の電話小屋がありました。峠を無事越えたことを家族に伝えたり、困ったりした時、ここから連絡もできました。ちよっとした小屋でしたが、吹雪の時などそこへ入って雪をしのぐこともできました。お助け小屋のような役割も果たしていたのです。その小屋の残骸というか跡は、今も県道の脇にあります。
 とにかく峠を越えるのは何といっても郵便屋さんが一番でした。毎日峠を往復するわけですから。

 

5.2 石徹白小学校て長く教鞭をとられた須甲すずゑさん(大正15年生まれ)の話

 私は石徹白で生まれ育ち、昭和17年福井県大野女学校から鯖江にある女子師範学校に進みました。鯖江の女子師範は途中から福井師範学校になりました。私は戦争をはさんで、予科3年、本科3年の6年も大学にいったことになり、戦後入学した人たちに比べて在学期間も長くちよっと損をしたような気にもなりました。
 当時、石徹白は福井県だったので、学校といえば当然福井の学校へ通ったのです。夏の間は、石徹白から福井県泉村大野市へバスが通っており、大野市から福井まで電車で出て、そこから鯖江までは電車でもバスでも行けました。石徹白から和泉村まてはバスが何便もないので、材木を積んだトラックに頼んで乗せていってもらうことも何度かありました。
 それが11月から4月の冬の間だと大変です。新学期になって学校へ戻ろうと思っても、雪が多く、和泉村へ出ることはできません。桧峠を越えてまず前谷まで出て、松山さんの所で着替えさせてもらい、北濃駅まで歩いて、そこから越美南線、高山線東海道本線北陸本線と乗り継いで、鯖江まで行ったのです。行くだけで1日がかりでした。
 昭和23年に師範学校を卒業して、石徹白小学校の教員になりました。結婚した後2年間白鳥小学校に勤めることになりました。通えないので小学校のそばに住宅を借りました。役場のジープに乗せてもらって、石徹白から白鳥へ行きました。
 昭和35年の3学期の始業式のことです。その時は3日間も吹雪がやまず車では行けませんでした。主人が先に歩いて道をつくってくれて、桧峠を越えました。白鳥に着いたときは全身ずぶぬれで、体は氷のようになっていました。ストーブで体を暖めてから遅れて始業式に参加したことを覚えています。
 県道ができたと言っても、いつも車があるわけではありませんから、歩いて桧峠を越えることは何度もありました。歩くときはその方がずっと早いのです。とにかくお腹がすくので、桧峠を越えるときは、いつもキャラメルを持っていったことを覚えています。
 今は小学校も退職して出歩くこともなく、桧峠を歩くこともありませんが、桧峠の思い出はいっぱいあります。

 お二人の話からもわかるように、冬の桧峠を越えることはなかなか大変であった。とくに病気の時は難儀であった。石徹白には設備の整った医療施設がなく、重病人や急病人は北濃診療所か白鳥町や八幡町の病院まで連れていかなければならなかった。
 家族が背負っていける程度の病人はよいが、降雪期に発病した重病人などは、そりに乗せて桧峠を越すしかなかった。雪の多い中、親類を頼んだり、吹雪とか新雪が多い時は隣近所までお願いしたりしなければならない時もあった。そりの手を同じ長さに切りそろえ両側で一人ずつこれを持って梶を取り、これを大勢がかんじきを履いてそり道を踏みながら、前綱で引き上げていく。下りは引く必要がないので、そりの速度を後ろで調整しながら運んだ。中の峠までは大勢の人足を必要とした。後の下りは少人数でよかった。
 通常の人でかんじきを履いて4時間以上かかる峠越えに、安静を要する病人をそりの上で揺らしながら、長い時間を運ぶのであるから、急性盲腸炎など緊急処置を要する病人が手遅れになることも仕方がなかったわけである。距離からいえばさほど大したことのない峠であるが、それに雪が加わると桧峠はいっぺんに難所となったのである。


 

6 史跡・文化財などの存在、峠の交通史、峠のまわりの自然、峠のまわりの人工的な景観峠の活用状況

 桧峠への道
 「白山への道いま昔」(上村俊邦著)を参考にしながら、私(執筆者)が歩いた桧峠ヘの旧道について、その様子を説明する。

写真:「白山への道いま昔」に挿入されている桧峠への道の地図

 

6.1 『白山中宮長滝寺』
 白山への道は、白山中宮長滝寺が美濃馬場として出発点であった。昔は神社も寺院も同じように信仰していたので、長滝白山神社も長滝寺も同じであった。明治の神仏分離で、神社と寺院は分かれることになった。現在同じ場所に白山中宮長滝寺と長滝白山神社が位置するが、本段、拝殿などが白山神社、大講堂、経堂などが長滝寺となっている。
 この長滝白山神社と白山中宮長滝寺、そしてすぐ近くにある若宮修古館、白鳥町歴史民族資料館、平成9年7月にオープンした白山文化博物館に白山信仰にかかわる多くの宝物文化財が収められている。岐阜県内において指定文化財が多い自治体は岐阜市についで白鳥町が2位となっているのも白山信仰に関する文化財がここに集中しているからである。(詳しくは白鳥町が発行している「奥濃越の遺宝一白鳥町の文化財」を参照していただくとよい)

6.2 『北濃駅』
 長滝寺(長滝白山神社)から国道156号を北へ向かうと北濃駅がある。長良川鉄道美濃太田から北濃駅まで来ることができる。

6.3 『前谷の道標』
 現在は、高鷲と石徹白の分岐点(156号の旧道から石徹白へ向かう県道の入口)の理髪店の隣にある。以前は近くの松山久男氏宅横にあったと言われ、当時の街道は松山氏宅の横をすぐ北上し塚洞川を渡って桧峠を目指したのである。当時松山氏宅は荷物の斡旋や吹雪の時などに泊めていただく宿屋のかわりもしていた。石徹白の人々にとっては桧峠を越えて、一休みする場所でもあったのである。

6.4 『前谷白山神社
 大正6年に、旧道にある床並社を遷座し稲荷神社を合併してこの地へ移した。県道石徹白前谷線沿いにある。

6.5 『千人塚』
 昭和30年代までは、前谷白山神社前から60mほど上流で橋を渡り、石畳の道を歩いた。現在の西前谷の集落の左手の田の中に小高い石盛りがあり「千人塚」「みみづか」と呼ばれている。昔この辺りで源氏と平氏が戦って平氏が千人も殺された。その耳を埋めた塚という説や、中世に飢饉があって多くの人が餓死した。その死者を葬ったという説、ドウゲンの戦いで戦死した将兵の耳を祀ったという諸説がある。

6.6 『前谷口番所跡』
 江戸時代末期まで番所があったと伝えられる。現在は農道になったり、県道の拡張でその跡はわからない。番所跡の反対側に「番所桜」という大きな桜の木がある。

6.7 『桧峠への道旧道に入る』
 番所跡から杉林へ入り、坂を登ると棚田が続く水田地帯へ出る。そこから次ぺ一ジの写真の林の中(堰堤が見える)ヘ入るといよいよ石畳の旧道が始まるのである。
 現在は、県道石徹白前谷線沿いの「阿弥陀ケ滝入口」の少し前のところに旧道の入り口を示す柱が立っている。近々、町がここに「歴史街道」の由来を説明した掲示板をつくる計画があるという話も耳にした。

写真:写真の道を進むと石畳があらわれ、
「トチの木」「床並社跡」が見えてくる

6.8 『トチの木休場』<下の写真がトチの木>
 石徹白街道(旧道)を通る入はこのトチの木の根もとを休み場にしたという。
 この休み場の隣に「床並社跡」がある。広場があり、20段の階段を上ると山の中にしてはかなり広い境内があり、そこに「床並社跡」の由来を書いた石碑が建立されている。 この大きなトチの木は現在、町の天然記念物に指定されている。

写真:トチの木


6.9 『石畳の道」桧峠に向かう旧道には、現在も数多くの石畳の道が残っている。

旧道に数多く残る石畳の道


6.10 『アラクラの滝』
 アラクラ(荒倉)の滝は4段になっていて、それぞれに滝壺がある。尾根の道からはわずかに1カ所だけ木々の間から3段目を見ることができる。(右の写真)耳をすますと滝音が聞こえる。下りる道はなく、地図にものっていないので「幻の滝」としてNHKが取り上げテレビで全国放送されたこともあったそうである。

 


6.11 『茶屋峠』
 この峠には地蔵様が安置されている。「宝暦12年4月吉日、願主当村長滝寺」と刻まれている。詳しくは、文芸作品「いとしろへの道」のぺ一ジで説明した。茶屋峠から先は緩やかな下り坂なので途中の谷までは楽である。<写真:中の峠の掘割り>
6.12 『中の峠』
 中の峠は掘割りになっていて、峠にしては見晴らしもよくない。
 ここからスゲオリの谷まで下り、橋を渡ればいよいよ「七曲がり」である。

写真:中の峠の掘割り

 

写真:中の峠


6.13 『スゲオリ谷』
 スゲオリ谷は、桧峠まであと一息。休憩場所としては最適である。
 このあと「七曲がり」があるので、この谷の小川の冷たい水で疲れをいやし、峠を目指したものと思われる。
 この道が使われなくなってから橋は朽ち果てていたが、平成5年から始まった地元白鳥中学校の歴史街逆整備事業により掛け替えられた。
 歴史街道整備事業については後で述べる。

写真:
白鳥中学校の歴史街道整備事業で橋の掛け替えが行われたスゲオリ谷


6.14 『桧峠』
 「七曲がり」を経て「桧峠」に出ると一挙に視野が広がる。
 初めに書いたように現在の県道石徹白前谷線はこの桧峠より少し下で石徹白に向かって下りていく。
 写真の「旧道桧峠」という石碑は昭和55年夏、地主上村五兵衛氏が旧道を偲んで揮毫し、岩戸建設がお堂と共に石碑を建立したのである。

写真:「七曲がり」を経て桧峠に出る


6.15 『桧峠から石徹白への道』
 前谷から桧峠までの旧道は地元の白鳥中学校の生徒たちが「統合30周年事業」の一貫として整備したので、現在、人が歩ける道として復元した。
 ここから石徹白への旧道は県道の開通、拡張や耕地整理のため寸断されている。一部その後は残っている。県道に沿って下り、第3セクターでつくられた保養施設「カルヴィラいとしろ」の前に出る。この前の道は耕地整理によりわからなくなった。
 そしてそこから中在所の「大師堂」前の中在所大橋に出て、「白山中居神社」ヘ向かうのである。つまり旧道は現在の下在所を通る道ではなく、中在所の「大師堂」の前へ出ていたのである。


写真:旧道桧峠に立つ白鳥中学校の生徒

 

7 地元の中学生による歴史街道整備活動

 

 昭和45年頃を境に、利用されなくなった旧道は荒廃の一途をたどり、道跡もわからない状況になっていた。
 平成5年10月17日、白鳥中学校統合30周年記念事業の一つとして「歴史街道整備活動」が始まった。
 普通はOO周年というと、記念碑を立てるなどハード面の事業が多いが、「心に残る記念碑を」という発想のもとに、この事業が始まったのである。
 初年度は、大変な作業であった。生徒会役員や教師、PTA役員が地元の方の協力を得て、わからなくなっていた旧道を探すことから始まった。旧道の位置がわかると役場の協力を得て地主さんを探す作業が行なわれた。道を復元するために木を切ったり、石を並べたりする許可を得るためである。そして、次は生徒会役員、級長たちによる作業場所の分担。そしていよいよ、全校生徒による10月17日の「歴史街道整備活動」の日をむかえたのである。
 その翌年からは、「体験を重視した主体的な活動」の一環として3年生の活動に位置付けた。この活動を、学級学年づくりに生かすと共に、自らも地域の文化遺産の担い手であるという事実の足跡を残し、生徒一人一人に地域の歴史・文化を大切にする意識を育てたいという願いからである。この「歴史街道整備活動」は5年目を迎えた平成9年度も白鳥中学校の3年生に受け継がれている。
 以下、その当時の中学生の作文や、現在の中学生の作文、写真などを紹介する。

7.1 『平成5年度』
7.1.1 3年生男子

 僕は最初の下見に参加しました。その時は道に草がぼうぼうに生えていたり、川の橋が流されてしまっていたり、道がくずれてしまっていたり、とてもひどい所でした。こんな所を人が通れるようにするのはとても大変だろうと思いました。その後も何回も下見に行きました。一略一当日は千人ぐらいの生徒と親が集まりました。やった仕事の中で一番大変だったのは、石段を作ることでした。石の大きさが合わなかったり石段を作ってもグラグラして、こわして何回もやり直したりしました。自分達で作った道ができたのでとてもうれしかったです。その後桜の木を植え、その木の前に石畳を作りました。小さな桜の木と小さな石畳だけれど、白分達で作ったので、春になって花が咲くのが楽しみです。

7.1.2 3年生女子

 一略一この活動で、自分たちが関わっている土地の歴史を改めて感じ、満足感と共に、私たちが復活させた「白山への道」「歴史街道」をこの先ずっと伝え、守っていってほしい、守っていかなければならないという気持ちになりました。
 これらを通して、私たちは身近な地域に対する歴史や文化に関心を持ち、それらを大切にし、守っていくことがとても大切だということを感じました。もっと重要なのは、私たちが築いたものを、後の人々に伝え、受け継いでいってもらうことだと思います。

7.1.3 2年生女子

 -略一こんな所を直して何になるんだろう?という気持ちで山を登り始めました。一略一なんでこんなことをやったのかな?と今思ってみると、たとえ、だれも通らなくなった、細くて、歩きにくい道でも、白鳥町の歴史をずっと見てきた道が、今なくなろうとしている時、私たち中学生の手で、直すことになったのだと思いました。白鳥町にこの歴史街道があるということを知ったということは、私にとって一つの収穫だったと思います。一略一仕事をしてから食べたおにぎりや、あったかいおでんは、とってもおいしかったです。とても疲れた整備活動でしたが、私の心にいつまでも残ると思います。

7.1.4 1年生女子

 「私達が作った道をたくさんの人が登ってくれるといいな」と、私は街道整備事業を終えて思いました。私達が作業をした所は、歴史街道の千分の一ぐらいなところかもしれないけれど、ず一っと残るのかと思うと、えらかったが、とてもよいことをしたなあ一、よいものを残せたなと感じます。
 石を掘り出したり、うめて階段を作ったりと、みんなで協力してやったので、とてもきれいな石畳ができました。一略一誰もが一つは仕事をもって、一生懸命できたと思います。
 作業を終えて少し登ると滝があったりして景色もよかったです。緑がしげっていて草のにおいもしました。空気もおいしく感じました。今は石徹白まで自動車で行ける道があるけど、ハイキングなどで、あの歴史街道が使われるといいです。あの景色を多くの人が見てほしいと思っています。

7.2 『平成8年度』
 この年の3年生にとって、歴史街道整備は、初めての経験である。

7.2.1 3年生男子

 今日は、歴史街道整備事業をやりに白山街道に行きました。行く前は「ぜんぜん大丈夫だ」と思っていたけれど、実際に登るときには、石が重くてとても苦しかったです。けど登っていて考えたのは「昔は車がないから、この白山街道を今の僕よりえらい思いをして登っていたんだな」ということでした。だから整備する所まて行ったら「やるぞ!」という気持ちになれました。そして仕事を実際にやっている時は、何も考えずに一所懸命やれていました。仕事が終わって上まで登って昼飯を食べるときは「しっかりできたな」という満足感でいっぱいでした。

7.2.2 3年生女子

 この歴史街道の整備事業は、白中の1つの伝統行事なんだと思います。毎年3年生は同じことをしてきて、きっといい汗を流したんだろうと思います。今年は私たちの番なので前の3年生に負けないくらい、いい汗を3年4組のみんなで流せたらいいと思います。そのためにも「疲れたから」と言って人任せににするんじやなくて、最後まで精一杯やりたいと思います。
 私はこの行事を、なんかとても大切にしたいような気がします。3年4組で行なう行事は残り少ないからかもしれません。でも、それだけじゃないような気がします。今はよくわからないけれど、この歴史街道整備活動をしっかりやりたいです。

7.3 『平成9年度』
 この活動も5年目。作業内容よりどう心を伝えるかが重要である。

7.3.1 3年生女子

 今日、歴史街道のビデオを見ました。私は初め「めんどくさいなあ」と思っていたけど、ビデオを見て、なんかめんどくさいとか言っていられないと思いました。
 級長の人も言っていたけど、自分からトライして先輩たちの残してきた伝統をしっかり守って次に受け渡していきたいなと思いました。

7.3.2 3年生男子

 今日、歴史街道の整備に行きました。この道があることは前から知っていて、出口の所には行ったことはあるけれど、あんなに険しい道だとは思いませんでした。
 精一杯がんばって、石畳もつくれてよかったです。



<平成8年度>            <平成9年度>

 

8 県道石徹白前谷線(現在の峠への道)

 明治維新は石徹白に大きな変化をもたらした。明治政府が着手した神仏分離政策は、神と仏を一体なものとしていた白山信仰を根底から覆した。白山禅定の宿場として古代から栄えてきた石徹白にとって大打撃であった。
 次に実施された廃藩置県も、それまで白山の神地として誰からも支配されることなく、白山信仰を中心とした自治組織のもとで運営されてきた石徹白に大きな衝撃を与えた。初めて福井県の行政下に置かれたのである。しかし白山信仰で築かれた郡上とのつながりは途絶えなかった。
 昭和10年代後半、自動車が普及してくると、この街道も自動車道への整備が急務とされた。しかし大野市への道を優先する福井県は郡上への道の新設には消極的であった。
 そこで北濃村と力を合わせて、林道で結ぶことにした。石徹白と北濃がそれぞれ桧峠に向かって昭和18年4月一斉に工事に着手した。途中終戦など紆余曲折はあったが、昭和26年8月20日、念願の桧峠林道がつながった。しかし自動車の通行は不可能な状態であった。
 昭和28年に公布された町村合併促進法で、石徹白も指導を受け「穴馬3ケ村の合併」「単独村」など考えられたが、最終的に選んだのは、全国的に稀な白鳥町(その頃北濃村は白鳥町と合併していた)との「越県合併」の道だった。これに先立ち白鳥町と石徹白双方から桧峠に向かって工事が行なわれ、昭和32年7月、自動車の通行可能な道路が完成した。
 昭和33年、越県合併は裁定され、石徹白は「岐阜県白鳥町石徹白」となった。岐阜県は林道桧峠線を県道石徹白前谷線に変更、改良工事を繰り返し、石徹白から国道156号を結ぶ約13kmの道路が完成したのである。この結果、石徹白から穴馬を経由して白鳥へ行っていた従来の所要時間の約3分の1の時間で白鳥まで行けることになったのである。 しかし冬は依然として従来のまま、峠越えであった。通行量の少ないこの道を常時ブルドーザーで除雪することはできなかった。また除雪に入ったとしても全線開通するまでに時間がかかりその間に雪が降るとまた交通止めという事態になったのである。
 昭和46年、石徹白地区内の有志によりスキー場の建設が計画され、昭和47年には早々とオープンした。幸いにもその年は暖冬で雪が少なく石徹白だけが雪に恵まれたこともあって県下に石徹白の名は広まった。県もそれに応じた除雪体制を整え、現在のような常時自動車の通れる道路になったのである。
 その陰で旧道は荒廃の一途をたどったのである。【「白山への道いま昔」参考】