いにしえ峠道

既に記憶からも遠くなり忘れ去られた峠越えの山道を歩いてます

幻の鎌倉街道を考える④

前項、幻の鎌倉街道を考える③では、ロマンに走りすぎてしまったので、ここで軌道修正する。

近世には、修験者をはじめ遊行僧、繭や藍など仲買や行商者、旅芸人などが頻度にこの道を通っていたし、もちろん近隣住民も通う道であったに違いない。

繰り返すが、川沿いの道は崩れやすく、また河川が山にぶつかるところは渡渉危険な歩危(崖)となり、う回路を作るか対岸へ橋を架けるしかなくなるため、治水技術が発達する近代以前には、大がかりな架橋や掘削は(幕府や藩が管理する)街道以外では採用されなかった。

それとともに主要街道を通ることは、関所や口番所を通過することになる。ここを通過するためにはその理由や許可書(通行手形)が必要となり、公的な移動以外の庶民の活動にとってははなはだ不自由な障壁となる。また、川を渡し舟で渡る場合なども関銭などが必要となり旅行者にとっても過剰な負担となっていた。

ゆえに、物流や移動にとって安定した道は峠を越える山道や尾根道であったのだ。人がすれ違うのがやっとの幅のこの山道は、運搬を支える牛馬の道でもあり、安定した峠道などは馬喰が貨物を背負った牛を放しても麓まで運んでくれたという古老の伝承も残っている。

前掲の『峠の歴史学』の著者、服部英雄氏によればこうした古道には流通・軍事・信仰の三つの意図があったという。
生産者と消費者を結ぶ流通の道、軍事拠点と前線を結ぶ軍事の道、そして神仏に救いを求めて歩く信仰の道であるという。信仰の道はどんなに険阻であろうとも、人が登り下りできればそれで支障がないが、軍事や流通となると、牛馬が通える条件が必要となるからだ。

本題に戻ろう。
近世にこの鎌倉街道を利用した歴史的事象として一つあげるとするならば、江戸時代の宝暦年間に郡上藩を揺るがした"宝暦騒動"と称された農民一揆が起こった。

藩の財政悪化により年貢の徴税方法を改め、より厳しい課税が示されたことに惣村が反対し、郡上一円の農民の争議となった。
村ごとに代表者を立て、藩役人に秘密裏に集まり取り組みの方針を協議し、最終的には藩への申し立てから、幕府への駕訴、箱訴へと発展し、農民たちは江戸への訴人を立てその目的を達成した。
その結果当時では類例を見ない、藩主(金森氏)の改易(領地没収取りつぶし)、訴人の獄門という厳しい判決となり、江戸の町民たちを驚かせたという事件となった。

この争議の初期には、郡上各地の農民の代表が何度となく話し合い対策を協議したといわれている。もちろん藩役人にその動向を知られることは即弾圧につながるため、集まる場所や時刻を取り決めた秘密裏の会合であった。

当時藩内には123の集落が存在したが、それらの集落から人目を避けて集まるためには、集落間に張り巡らされた峠道や裏道を利用しており、東西の集落をつなぐこの鎌倉街道も当然利用されていただろう。

*この騒動を記録した歴史文書の中に、鎌倉街道を利用したという記述が明確にあるわけではないが。

⑤につづく、