いにしえ峠道

既に記憶からも遠くなり忘れ去られた峠越えの山道を歩いてます

油坂峠旧道

油坂峠は越前大野と美濃白鳥の国境にある峠です。
古来から越前街道、美濃街道とよばれ、北陸から東海にぬける主要道であります。
室町時代には、越前の朝倉氏がこの峠を越えて郡上の東氏篠脇城を攻め戦となり、油坂峠の戦いで流した血の油がこの峠の由来であるとも伝えられています。

現在は、中部縦貫道の整備で高速道路用のトンネルが供用使用されており、あっという間に越前境を越えてゆきますが、それまで利用されていた国道158号線の油坂トンネルも旧峠の真下を通っていて、現在も利用できます(冬季通行止め)

高速の油坂峠トンネルを抜けて越前側へ少し走ると、右側に国道の登り口があります。
その国道を少し上っていと、旧トンネルの入り口となります。

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トンネル入口にたどり着く200m位手前の所の山側に『蝶の水』と書かれた指標があり、その上に続く山道を登ってゆくと旧油坂峠となります。

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ここが以前からの道(旧道)で間違いないことは、国道から反対に谷に下りていく旧道跡が残っていることでも証明されます。(現在も谷沿いに旧道跡を下ることができます)

峠まではわずか15分程度で道も整備されていてたどり着けますが、倒木処理がされておらずいちいちその下をくぐっていかなくてはならないのが不便です。

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峠手前は少し開けていて、指標にあったとおりの喋々清水(涸れたことがないという)があり、その記念碑には詩歌が残されています。

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峠はその先のすぐのところです。
空が開けていて、白鳥の町と背後の白尾山の山並みを見渡すことができます。

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峠越えた美濃側は少し斜度がきつく道も細くなっています。
下った先は、トンネル出口から200m程度の路肩につながっています。
(岐阜県側には旧道の標柱がありました)

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 以前、美濃側の旧道を知りたくて、この先を国道の下をくだってみましたが一部旧道の名残りはあったものの藪が生い茂り、途中人工林の植樹されたあたりは地形が変わってしまっていて、もはや旧ルートはたどれない状態でしたが、たぶん、旧油坂スキー場跡地の下の谷に出てくるルートであったと思います。

 

以下、「美濃の峠」(平成11年 岐阜国道事務所発行)より引用

1 峠の位置と概観

 

「峠のルーツ」 昭和58年7月20日発行
著者 上杉喜寿  発行所 福井県郷土誌出版研究会

 郡上郡白鳥町と大野郡泉村の間にあり、越前と美濃を結ぶ要所に位置する峠である。白鳥町から福井県大野郡和泉村へとぬける国道158号(通称:美濃街道)にあり、峠の頂上の標高は800m、白鳥町向小駄良との標高差430m、泉村箱ヶ瀬地区との標高差220mである。現在、中部縦貫自動車道の建設により白鳥町側から道路の整備が進んでいる。峠の県境は、近年越美通道が貫通し、それまでの油坂隧道を利用していたときより時間が短縮され便利になった。
 峠道は、明治以前の道、それ以降から昭和までの道、現在の道の大きく3つがある。明治以前の峠道は、油坂スキー場下のカーブから急勾配な斜面を登り、油坂隧道の和泉村出口付近へ出るものと、油坂隧道の手前100mから北側の斜面を登って隧道和泉村出口付近へ出るものとがある。明治以降の道は、明治22年に峠の中腹に油坂隧道が開通し、山頂付近の険しい箇所を通らずにトンネルを通って和泉村へ抜けられるようになった。それが昭和14年にトラック通行ができるよう改修され、近年まで利用されてきた。昭和61年11月、中部縦貫自動車道建設に伴い、油坂隧道より標高が約100m低い地点にトンネルが開通し越前への時間はますます短縮されることととなった。

2 峠につながる道

 白鳥町側:向小駄良地区へループ橋により国道156号へと通ずる。北へ高鷲村を経て荘川村へ、南へ大和町をへて岐阜市へ至る。
 泉村側:九頭竜湖沿いに整備された道路を通り、越前大野市へと至る。

 

3 峠の道の変遷史

3.1 室町時代
太平記』によれば、延元3年(1338年)7月、南北朝の動乱の余波を受けた戦いが、越前で起こったことが記されている。足利幕府は、越前の南朝新田義貞を討つため東海の諸将を差し向けた。中でも美濃の守護土岐弾正少弼頼遠は、搦め手の大将として美濃・尾張の軍勢を率いて郡上から油坂峠を越え、穴馬を通って越前大野に進撃し、新田方の脇屋義助を攻めたとされる。一説には延元4年(1339年)という説もある。

3.2 戦国時代
 天文9年(1540年)8月、朝倉は美濃郡上・東氏の篠脇城を攻撃した。その際、東氏側の堅い守りと反撃に遭い、油坂を登って越前へ逃げ帰ったとされる。朝倉勢は翌年再び郡上へ侵入したが、東氏は向小駄良でこれを迎え撃ち退けた。
 また、天正3年(1575年)信長の越前一向一揆討伐で、郡上遠藤氏は油坂峠を守備した一揆軍を撃ち、このとき流れた血潮で道が滑って歩けなかったことから「油坂」という名がついたという話も伝えられる。
 このように、越前・美濃の武将が、いずれもこの白鳥-大野を挟む油坂峠を利用して作戦を立てており、近隣の武将はこの峠道を常に確保することに努めたと考えられる。

3.3 江戸時代
 近世に入っても、この峠を通る道は大名や役人の通行、物資の輸送がかなりあり、その軍事的・政治的な役割は大きかった。元禄5年から郡上藩が越前69か村を領有するようになってから、峠は年貢米や諸物資の輸送、若猪野代官所との連絡などのためいっそう重要なところとなった。
 大野から穴馬の谷筋を通って美濃の郡上、飛騨の高山に至るこの道は政治的・軍事的・経済的にきわめて重要な交通路だったことから、幕藩領主は道路の維持に努めると共に、荷物や物資などを運ぶ人の確保に力を入れた。そこで、谷筋の村々から必要に応じて人足を徴収した。記録によれば、人足には駄賃が払われたといわれるが、農作業に影響を与えるため農民にとっては苦しみの種であったようだ。
 元文5年(1740年)ごろから、穴間の下半原・荷暮・久沢・市原の4か村では、油坂峠を越えて木材を郡上方面へ販売するようになった。材木・その他の用材などの商品化は年代が下るほどますますさかんになった。

3.4 明治時代
 日清戦争の後軍備拡張のため、動の需要が高まり油坂峠は冬場の銅の鉱石の輸送路として利用されるようになった。(白鳥→八幡→大垣)


4 峠にまつわる伝説

4.1 峠の名前の由来
 ・昔は白鳥側の向小駄良から直登し、玉のような脂汗を流したという。あまりの急坂で、しまいには汗の代わりに脂じみたものがにじみ出た。
 ・信長の一向一揆征伐の際に、油坂峠を守備した一揆郡を滅ぼした際に流血によって向小駄良からの峠道は油のような血潮で道が滑って歩けなかった。

4.2 向小駄良の「牛の子」の由来(北濃村役場所蔵の記録)
 元禄年間、能登の牛方が、献上牛を引いて上京せんとしたが、現在の福井県日野川が、折柄の大洪水のため、武生から近畿に入る道をさえぎられ、やむなく険路美濃路を迂回することとなり、越美の国境油坂峠を越える途中、長途の旅の疲れで、牛は一歩も前進しなくなった。
 牛方は大いに困り、向小駄良集落民を頼んで、暫く休養する間滞在することとなった。集落民は献上牛でもあり、かいがいしく牛をいたわり介抱したので、牛は元気を回復した。
 ところが集落民はこの牛が、世に比類なき見事な黒牛であるのに感嘆し、何とかしてこの牛を種牛として譲り受けたいと望んだが、この牛は天子様のご用牛として、ぜひ京都に引き連れて行かねばならない。しかしながら、「それほどまでに集落衆の望みであれば、国の方にもう一頭、これに代わる牛があるから、何とかしてご親切にしてくだっさったご恩返しとしてお譲り申そう」と、堅い約束をして牛方は出発した。
 それから二年後、はるばるその牛方は黒牛を引いて向小駄良にやって来て、村の庄屋に渡したのである。集落民の喜びは一方ならず、一村挙げてこの牛を愛し、繁殖に力をつくした結果、一時は近隣諸国に向小駄良の黒牛でなければ牛に非ずとまでその名がひびきわたった。
 これが遂には郡上の民謡「向小駄良の牛の子見やれ、親が黒けりゃ子も黒い」と唄われ、人の知るところとなったのである。
 現在、向小駄良の山林中の竹城洞には「木戸口」と称する牧場の跡があり、土場といわれる牛方衆の休み場とか、「のたうちば」として、牛の休み場等の跡が残っている。(以来、向小駄良集落では家畜として牛を一戸二頭以上飼育している農家が多く、ひいては北濃村全般はもとより、隣村白鳥町、高鷲村等、屈指の有畜農村となった)

4.3 蝶々清水の歌碑
 「峰高ふ 涌くは恵みの清水かな」
油坂隧道を白鳥側に抜けて100mほど行ったところの左側にコンクリートの階段がある。そこから上っていくと数分で、昔牛馬の往来をしのばせる一間幅ぐらいのなつかしい山路跡に出る。その道を更に奥深く1~2分進むと、すぐに下りになっていて、一見してその辺りが旅人や牛馬の休み場の峠になっていたことがわかる。
 そこにこの句碑がある。現在は何の苦もなく汗一つかかずに、この峠まで辿りつくことができるが、かつては、白鳥側から上りきるには大変難儀なところで、脂汗が流れ出たほどに辛かったという。油坂という地名もそんなところから生まれたらしい。
 この峠には一滴の水もなく、特に夏の炎暑に人々の大変苦しむのを見るに忍びず、峠の岩を堀り穿つに、誠に神仏の加護ともいうべきか、清水がこんこんと湧き出たという。
 原文を紹介すると、以下の通りである。(和泉村教育委員会記録から)
 句碑は7~8年前から紛失しており、現物を撮影することはできなかった。『白鳥町史資料編』によれば句碑の寸法は高さ79㎝ 、巾45.8㎝、厚さ37.8㎝とされる。


5 油坂峠が登場する伝説など

5.1 伝説
 ①瑠璃光薬師如来
 ②悪源太義平忍居のこと
 ③かっぱの骨つぎ
  以上、「和泉村の伝説と民話」に収録

5.2 昔話
 ①どんびきと峠
  以上、「和泉村の伝説と民話」に収録

5.3 年中行事
 ①九ヶ道行
  以上、「和泉村の伝説と民話」に収録

5.4 わらべうた
 ①おべろんや
  以上、「和泉村のわらべうた 民謡」に収録

※「和泉村の伝説と民話」和泉村教育委員会発行、昭和52年10月20日
 「和泉村のわらべうた 民謡」和泉村教育委員会発行、昭和52年10月20日