いにしえ峠道

既に記憶からも遠くなり忘れ去られた峠越えの山道を歩いてます

会所洞峠 大和町万場~落部乙原

この峠も古地図には峠名の無い峠道として表記してありましたが、国土地理院地図には峠道の表記がなく、これまでチャレンジすることはありませんでしたが、レーザー地図(ひなたGIS)を見たら峠道が現れていたので登ってみました。

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古地図に残る峠道はまっすく西に下っていたようである

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かなりはっきりと残る峠道の跡

長良川鉄道の万場駅から西に谷筋を入る場所で、高速の高架をくぐるとすぐ谷筋になります。
谷を入ると舗装路は間もなく終わり、林道がまっすぐついています。
途中待避所で車をデポし、そこから徒歩で進みました。

10分も歩くと林道が終わり、そこからは三つに分かれた谷(三又)となっていてどこからも道跡らしきものは見つけられません。
いつものごとく、登り安そうな取り付き(決して登り安くはない尾根の取り付き)に取り付いてひたすらストックで三点確保しながら登りました。
道跡らしきものを探しながら登っていきましたが、それらしいものは見つかりません。
目の前にあるのは、急な尾根の藪漕ぎか、食い込んだ谷だけです。

なんとか、緩斜面になるあたりまで来たら一町部程雑木林が伐採されていました。
なぜここだけと思い上を見たら送電線が走っていたので、たぶん中電の電送線の管理のために行われたもののようです。

そして、さらに藪をかき分けて登ったらすぐ尾根筋に出てしまいました。
尾根筋は東西に走っており、北側を見ると白鳥の町から北に遠く白山(三ノ峰、別山、御前ヶ峰、大汝峰)がまだ白く美しく輝いていました。

地図上では南北に走る尾根筋に出ると思っていたので、ちょっと混乱しましたが、どうやら予定していた場所より北側に東に延びる尾根筋に出たようです。

これでは、峠道が見つからないのも当然です。
尾根道を南に下ってみました。
歩きやすい尾根筋を10分程降っていくと、白鳥の雨量観測の施設がありました。

そしてその先の鞍部(一番低くたわんだ所)に峠道の表記がありました。
会所洞峠と書かれています。
西に下る道はレーザー地図に残るように、山の斜面を斜め北に沿って伸びていました。
麓までは行きませんでしたが、20分弱で乙原集落(今は無人集落のようですが)に出られるようで、道も雨量観測の施設のためか、きれいに整備されているようでした。

降りは峠道を下って行きました。
東に下る道は険しいつづらおりの道で道跡も1メートルほど掘れて残っていましたが、谷に近ずくに連れて荒れがひどく途中から道跡は崩れてしまっています。
谷を下りきって出た場所は、最初に登り始めた尾根取り付きのすぐ左側の谷でした。

結局こちら側(東側)は既に峠道としてはほぼ利用されておらず、荒れるに任せて放置されているようです。

名もなき(地元の人がつけた名前は残っていますが)峠ではありましたが、往時はこの山越えの道を越えて集落の人々が交流していたのでしょう。

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旧白川街道高鷲からひるがのへの山越え

旧白川街道は郡上白鳥から砺波に抜ける98kmの山道である。

その中でも、ルートが明らかになっていない区間として、高鷲からひるがのの四本杭の区間がある。
四本杭とは、美濃と飛騨の国境を示した場所として、近世の逸話が明らかとなっているが、現在その場所は未指定となっている。

今回調査したのは、高鷲からひるがのの四本杭に抜けていた旧白川街道のルートである。

ひるがの(および上野地区)は戦後に入植開拓された地域であり、当初は泥湿地の農作物に不向きな土壌であり、開拓者達は大変な苦労をして土壌改良し、酪農から高原野菜の農業を始めた地域です。

長良川源流(高鷲叺谷)から峠を越えてひるがのに抜ける道路は、御母衣ダムの電源開発計画により、その資材運搬を容易にするために整備された道路(通称100万円道路)であり、それ以前は車両が通るのは困難な道路であった。

さらにさかのぼる近代の始めまでの白川街道は、高鷲から北東に尾根筋を越えて上野に出るルートであったと記述されていますが、四本杭までの道筋ははっきり残されていませんでした。

上野から四本杭を抜けて飛騨野々俣に向うルートは戦後の農地開拓により跡形もなくなり、辿ることはできませんが、高鷲から上野に出るルートは山道であり、きっと痕跡が残っているだろうと以前から資料など探索をしていました。

長良川が支流の鷲見川と分かれる辺りを、その間にある山に登り尾根伝いに上野にでるコースであることは過去の資料から明らかになっていましたが、具体的なルートがどこにあるのかは長い間の謎でした。

今回調査踏査を試みた最大の理由は、知人に教えられた航空レーザー測量地図の存在が大です。(ひなたGIS)
たまたま岐阜県のレーザー測量図を見ていたら、山に残る山道の跡らしきものが気になりました。場所的にもこれは旧白川街道の山道でないかとひらめいたのです。

今まで想定していた場所よりも長良川沿いに少し入った谷から続く山肌をつづらおりに登り、そこから北に向かい尾根筋を上野に出る道筋が山肌に残されていました。

高鷲集落からひるがのに向かう国道(156号)から、谷筋を下って小さな橋がかかっていることを地図で確かめて、その近くに車を止め、橋に向かう道(道は地元の建設業事業者の渡場裏からつづいていました)を下りました。

この橋を一般の自動車が入ってくることはほぼないようですが、造林施業の関係で作業車が入るために作られたようです。

橋を渡り、地図に残る道跡を探して山肌を登り始めました。
道跡はすぐに発見することができました。
レーザー測量された道跡らしい場所を探しているのだから見つかるのは当然ですが、こんなにもはっきりした道跡が残っていたとは驚きでした。
レーザーの測量精度は1メートル前後の高低を見事に反映して地図に表示していることがよくわかりました。

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写真左下から右上方向に向う山に道跡が残る

これまで多くの古道(峠道)調査を行なってきましたが、これまでは過去の地域資料や古地図に残る道跡を頼りに現地調査をしていたので、そもそもどこが入口なのか、どこを通っていたのかほとんどあてずっぽうで歩き回り、運よく道跡を見つけられたものもあるけど、多くはたぶんこのあたりと推定するにとどまる場所も多くありました。

既に使われなくなって50年(100年以上もある)は過ぎた山道の旧道跡はそれほど荒れその痕跡を失いつつあります。

しかし、今回利用したレーザー地図の痕跡からたどる道筋は、確実に現地に残る痕跡が前提となっているので、これまでの資料頼りの調査とは比較にならないくらいスムーズで確実です。

今回、地図上では不明確な痕跡も現地に入れば結構な道跡が残っており、上野台地に出るまでの山道をほぼ確認することができました。
これもやはり、旧街道の痕跡ということで、いかに多くの人々がこの道を通ったのかを証明していると思います。

山道に何か遺跡的なものが残っていないか注意して歩きましたが、人工的な遺跡は見当たらず、一部山道の補強のために積み上げられたような石垣跡らしきものがありました。

上野台地の先端である平地に抜けるまでは、約1時間半の道のりです。そこから次の街である飛騨の野々俣まで約1時間で、高鷲からは徒歩3時間程度の道行きであったのでしょう。

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河内峠からの旧大峠

古峠探索が不発に終わり、このままでは帰れないなと、さらに南にある河内峠を探索してみました。
これも国土地理院地図で発見したものです。

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この峠までは既設の林道が入っているため、麓からの渡渉探索はやめ、まずは峠位置の確認を優先しました。

古地図にはちゃんと峠道も表示されています。

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156国道から下苅安の白山神社を東に入ります。
上部を走る高速道路を過ぎると、フォレストパークみなみや、アースシップなどのアウトドア体験施設を通り過ぎ、さらに林道を進んでいきます。
途中まできれいな舗装路が続き、これは楽勝かと思ったのが大きな間違えです。

河内峠から延びる谷筋の麓まできましたが、とても渡渉探索できるような場所ではなくそのまま車で林道を走ると、道は坂がきつくなるころダートとなり狭く荒れた道になります。

始めはゆっくり走れば問題ないと思っていたのですが、走る程にガレ場は多くなり、谷は深くなり、もちろんUターンできるような場所もなく、対向車がきたらどうなるんだるうと想像すると恐ろしく、車幅ギリギリに路肩が崩れ、さらには倒木がギリギリに倒れている場所数か所。
(車を停めて外へ出ることも危険そうなので写真もありません)

"ふつうならこんな場所通行止めにするだろっ!!"と一人逆切れも後の祭り。

もう前に進むしかありません。

林道がようやく尾根筋近くなり、もうどうにでもなれとあきらめた頃二股に別れる道が現れ、どうもここが峠跡のようです。

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地図には南北に延びる一本道の林道しか記載されていませんが、新たに東から延びる林道まで新設されているようです。

車を止め周辺を探索しました。
確かに越えやすい鞍部となっているので峠道があったことが理解できます。
鞍部周辺を歩いてみたら、ありました。お地蔵さんです。
安政八年(1779)小那比村の粥川惣右衛門さんが設置されたようです。
なぜか上部が割れていますがお地蔵さんの頭は大丈夫でした。

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ここが旧河内峠に間違いはないようですが、峠のお地蔵さん以外の痕跡を見つけることができません。
東側は林道開設で大きく開削されており、西側はかなりの急斜面が続いていて、まっすぐ降りるのは困難なようなので峠道を見つけることは諦めました。

さて帰り道です。来た道を戻ることは考えただけでも恐ろしいので、さらに北に進み大峠の旧道に出ることにしました。
道は尾根筋をまっすぐ進む感じですが、道脇にお地蔵さんが立っています。

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なんで?こんなとこにと思いましたが、よく考えたらここは旧大峠の古道の峠だったようです。
このお地蔵さんも安永三年の設立でした。
ここの鞍部の東側は残土で盛り土され埋め立てられています。たぶん大峠の新道トンネル工事で出たものをここに築土したものでしょう。

西側に降りてみるとありました。つづらおりに続く峠道です。
今でもはっきりとした道跡が残っていることに感激しました。
林道からすぐの所にはもう一つ石像があり、こちらは馬頭観音像のようでした。
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馬を連れてこの峠を往来したのかと、往時の事が想像されます。

一度麓まで降りてみたいです。

 

大峠跡からさらに北に進むと、旧道の峠道にでることができました。

そこにもお地蔵さんがお祀りされてました。

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「美濃の峠」(平成11年岐阜県国道事務所発行)より転載

おおとうげ

大峠

所 在 地:郡上郡八幡町小那比~郡上郡美並村羽佐古口

 


調査委員:古屋 寿彦(郡上郡大和町立南小学校 教諭)

 

1 峠の位置

 

 

 

 


 大峠は、郡上郡美並村と八幡町小那比とを結ぶ峠で「羽佐古峠」とも呼ばれる。国道156号を北上し、郡上郡美並村羽佐古口にて東に入ると大峠に至る県道鹿倉-白山線となる。峠の頂上は海抜512mに位置し、そこで二手に分かれる。一方は八幡町小那比(町道小那比-下川線)、もう一方は八幡町野々倉につながる。峠頂上は美並村と八幡町の境となっているが頂上付近の山林は美並村の村有地になっている。現在、羽佐古口から峠頂上までの上り、峠頂上から小那比までの下りともに細い道ではあるが完全に舗装されている。

 

 


2 峠の概観

 国道より東に入るとすぐに細い道となる。普通車は通行可能であるが、それでもすれ違うときにはやや注意を必要とする。峠頂上に至るまでは、やや傾斜の強い上り坂で、急なカーブが連続する。小那比に至る下り坂もそれと同様である。道中は、杉の植林が続き、昼間でもやや薄暗い感じがする。冬季には、積雪量は多くないものの、凍結や道路脇に残った雪が峠の通行を困難にすることもある。しかし、小川に沿って走る道も多く、車から降りれば、澄んだ川のせせらぎが耳に入り、非常に心地よい。頂上付近より、一本林道がつながるが、そこに足を踏み入れると、近隣の山々が見え、国道より上ってきた道が所々に見える景観の良い場所もある。

 
・頂上付近よりの展望
 県道沿いからは、木に囲まれてなかなか景色を眺めることができないが、少し道を離れていくと、景色が開け、周りの山々の尾根がよく見渡せる


 現在の県道とは別に、旧道も存在するが、現在では所々県道に分断され歩道の近道として希に利用する程度である。
 国道156号美並村羽佐古口には「右のヽくら道 左八まん道 南無地蔵大菩薩」と記された道標が建っている。また、現峠の頂上には、馬頭観音が置かれている。さらにその右手に続いている林道を50mほど行くと、安永3年に三津谷村(現在の小那比の一地区)の新八という人物によって建てられた馬頭観音がひっそりと存在している。これが旧峠の頂上である。また、この年代より小那比と美並村との交流も始まったと言われている。

・頂上より県道(美並村側)を眺める
 杉の植林に囲まれ、はっきりとは見えないが、きついカーブの様子が見える。周りの植林により、日陰になるところが多い。
 

 


3 峠の歴史

3.1 街道を結ぶ道路
 江戸時代に存在した街道に、美濃各地から飛騨に通じる郡上街道、津保街道がある。上之保から小那比にぬけ、大峠を経由して美並村に至る道、八幡町野々倉から大峠を経由して美並村に至る道は、津保街道と郡上街道とを結ぶ道として利用されたという。
 津保街道は「塩の道」と呼ばれ、明治の初め頃まで塩を求めるために、上有知(美濃市)まで出かけた古い道である。塩を求め、田平から洲河(八幡町)へ入り野々倉を経て大峠を越し、下田(美並村)から上有知に入るルートがあった。

 小荷馬(こんだうま)と呼ばれる荷馬の背に塩の俵を均等にふり分けて積み、道中、熊などの被害にあわないように馬につけた鈴を鳴らし、にぎやかに峠越えをしたという。
『和良村史』より


 また、野々倉や小那比地区は笠松代官の支配地として幕府直轄領になっていたため、幕府への年貢米等の輸送にも峠を経由されていた。

3.2 川湊の発達との関わり
 美並村、小那比、野々倉を結ぶ大峠は江戸時代初期よりその交通量が増してきたと言える。それは、川運の発展に起因するところが大きいが、もともと木曽、長良、揖斐の3大河川に木材や年貢、農産物を運搬するために、沿岸には川湊が発展した。この地方の川湊と言えば、上有知(美濃市)であり、大峠を経由して木材等、大矢の渡し場より船荷として運搬された。

3.3 番所
 郡上藩では、郡内の安全を図って人や貨物の出入りを取り締まり、移出入の物品税を取るために口留番所を主要道路においた。番所の番人は2名ずつで、荷物や通行人の検閲を厳重に行い、荷物の移出入に対して諸役を徴収した。郡内には総計17の番所がおかれたが、羽佐古口の番所もその中の一つである。国道より1㎞ほど入った、屯屋敷という地名のところに番所があった。現在では県道の工事等で、跡は残っていない。

3.4 旧道と新道
 昭和に入ると現在の道の基となる道ができた。野々倉で採れるマンガン石、木材を美並村刈安の駅まで運ぶために、新たに道を作っていったのである。それ以前は、人が通れる程度の旧道が峠を越えるためのルートであり、小那比地区の人々は急病人が出たときなど、美並村や八幡町に出ていくため旧道をかごに乗せて吊っていったり、子どもを背負って峠を越えたという話も聞く。
 昭和20年代にはいると、物資の運搬に車を使うこともあって、小那比・野々倉地区より美並村へ行くための道路を拡張する必要性が生じ、道路の拡張を求める請願がなされ、工事が進んだ。昭和30年代には国道から小那比に通じる定期バスが運行されるようになったが、利用者の減少により現在では運行されていない。


4 聞き取り調査より

佐藤千代吉さん(八幡町小那比在住)
*昭和30年代まで大峠道路看守人として従事
「物資の交流としては、美並村や上之保(武儀郡)から、よく物がきたねえ。昭和8年には(大峠付近は)まだ車が走るような道やなかったなあ。それから請願して通れるようになっていったけど、それ前は、やっと人が通れる程度で道って言う道ではなかったなあ。ほんで近道(旧道)ばっかり歩いたり、林道のような道ばっかり歩いとったね。
 昭和30年頃になって、ようやくバスが通るようになったな。その前はまんだやっと馬車が走る程度だったな。
 小那比からは養蚕したり、お茶を作ったり、こんにゃくを作ったりして売りに行ったなあ。(美並村との)交流って言うと材木を切り出して、刈安の駅までみんなで持っていって汽車で運んだんや。材木と、あと、マンガン石を売って生活しとったんや。そのためにどうしてもいい道路を作る必要があったもんでみんなで請願して拡張工事をしてもらったんや。

「峠を通ると言えば、刈安で汽車に乗るために大峠を越える必要があったんや。朝は4時くらいに起きて峠を越えたこともあった。頂上の近くまでいくと朝日が昇るのがよく見えたもんや。それで、ポーッと汽車の汽笛が聞こえてくると安心したもんや。汽笛の音が山へよく響いてきたもんや。それから、汽車を見に行くために峠を越えて刈安まで行くこともあったよ。とにかく汽車が珍しょうてそのために歩いて通ったもんや。」

「あと、洲原の神社へみんなでお参りに行くために峠を越えることもあったなあ。洲原の神社は農業の神様やもんで、いつも田植えが終わるとみんなで行ったよ。それから、雨乞いをするためにも行ったなあ。そんなふうにして昔は峠を通ったもんや。」


5 参考文献

 『郡上八幡町史 上』
 『和良村史』
 『美並村史 上』
 『目で見る 美濃飛騨の街道』 岐阜郷土出版社
 『岐阜県の歴史』
 『郡上郡 地理歴史民族史』

かわちとうげ

河内峠

所 在 地:郡上郡美並村白山下苅安~郡上郡八幡町小那比

 


調査委員:石橋 寿則(美並村立吉田小学校 教諭)

 

1 郡上街道

 郡上街道は、福野坂を下って苅安の旧国道に入る。現在ここは「町切」の地名が残っており、美並村に残る数少ない「町」がついた場所で最も繁華な場所であったらしい。また、畑佐勇氏家は家号を「ホンジ」と呼び、「本陣」から転化したもので、大名の宿所の本陣であった。
 ここから 戸谷川に沿って白山神社まで上り川を渡って乗性寺前に至る。ここで武儀郡舟山街道と合流していた。(写真1)

写真1:銀幣社


 道は乗性寺前を通り北上し、村道を通り大矢元に至る。この道は道路開発によってほとんど残っていない。大矢元の中央部を抜け、上市場から登っている村道を横断し水田の一番上手を通って「馬瀬坂」に至る。峠に道標「是従 右ののくら金山道 左八まん城下道」とある。(写真36)その道標の前の道は幅2mほどではっきりと残っている。峠を越えて、羽佐古谷川を国道に向かって進むと、そこで谷を渡り、山に登って三日市に入る。

真36:道標は近くの雑木林の中に葬られていた。


 その羽佐古口には道標「南無地蔵大菩薩 右ののくら道 左八まん道」がある。この道標は、現在の位置より東の野々倉、小那比街道の三叉路にあったと思われる。(『郡上街道』『美並村村史』より)

峠の位置及び旧道ルートの位置図

 


2 峠道

 苅安の乗性寺南から戸谷川に沿って登ると、道は三つに分かれ、三つの峠に至る道である。入り口には「戸谷口番所」があり、天領と郡上藩の人物往来を監視していた。番所は、国道より200mあまり谷に沿って進むと両側の山が迫って深い谷となる。この深い谷の右手の杉林の中にあったが、現在はその形跡はほとんど不明となっている。
 ここより5,600m進むと「井堀り」と呼ばれる用水池に至る。これは寛文年間(1661~71)郡上藩主遠藤常友の時代に新田開発が行われ、当時の新田奉行高田関左右衛門が福野新田開発のため築堤したものである。この用水池から福野用水トンネルを掘り、新田に通水したものである。現在は、道が整備され、上方を高架した東海北陸自動車道が通っている。その下の大きくカーブした崖の一角に地蔵がまつられている。大正年間、馬子が荷馬車ごと戸谷川に落ち、死亡する事故があったそうである。また、地蔵のまつられている側の竹藪の中には、マンガン鉱を採掘していた一柳さんのダイナマイト倉庫跡が残されている。この用水は、今も使われている。さらに、この井堀池は、フォレストパーク373として整備され、アウトドア施設として観光客や村民の憩いの場となっている。
 井掘りを過ぎ3、400mあまり進むと道は三叉路となり道標が二つある。中央に「南無阿弥陀仏」「右がんそれ、左おなび道」とあり(写真10)、角石の道標には「天保三辰歳や右がんそれ・左か己ち」とある。右は武儀郡武儀町雁曽礼に至る雁曽礼峠。雁曽礼峠道はさらに分かれ、右は武儀郡上之保村舟山にいたる舟山峠の三峠道である。旧道より100m登ったところに、平成三年林道苅安ー雁曽礼線が開通した。

写真10


 左は八幡町小那比の河内に至る河内峠である。旧道はほとんど通行されず、道標があったあたりにわずかに判別できる。(写真10)道幅は狭く、人や自動車の通行はほとんどなく、草木に覆われていた。


3 峠の位置と峠に至る道

 美並村大原と武儀郡富之保を結ぶ県道大原富之保線にある「馬越峠」と
 美並村白山と小那比を結ぶ県道鹿倉白山線にある「大峠」の中間に
 河内峠は位置している。

3.1 美並村側
 峠に至るまで林道を登る。送電線が並び檜・杉が植林された山々が海のように広がっている。林道建設のため曲がりくねった道の岩肌には、変成岩(チャート)が褶曲の様子を見せていた。 林道の途中から河内峠を臨むと、山々の低くなったところが峠である。(カード8) 林道は送電線建設のための道路と交差していて、途中までは自動車で登ることができる。しかし、峠に至る道はわからない。地元の「ササユリ会」の会員の大沢さん、山仕事をする人に案内され、草木の生い茂る峠道に入った。(写真19)


写真19:峠道・入口。山仕事をする人の案内で、道を探しながら峠道に分け入る。 ササユリ通信



 峠道を草分け枝分け進み出たところは、送電線の工事のための道であった。その道が、旧峠道を寸断していたのである。道を横断して、崖を登ると2本の大杉に至った。 ここが、河内峠である。峠からは登ってきた大洞谷を眼下に、広く山並みが続いているのが眺望できすがすがしい。
 大杉の根元に、ひっそりとたたずむはずの地蔵さんが、くずれおちていた。
 大沢さんの案内で、峠道ではない道(昔、散歩がてらに登ったことがある)で大矢元に降りた。

3.2 河内側から峠に至る
 八幡町小那比地内の河内地区には、現在4軒の家がある。河内から林道に入り、1900mほど行くと木々が伐採されて明るくなっているが行き止まりとなる。そこから河内峠に至る旧道にはいる。二本の杉の木がまるで入り口のように並び、美並村側に比べわかりやすい。最近はほとんど使用していないが、河内の石神さんの話によると「昔、峠を越えて苅安にある美容院に行ったことがある。大峠を越えて行くよりずーと近いから。」とのことであった。美並村の店、鉄道に行くのに近道として利用した程度であった。
 峠からの河内側の眺めは、河内地区が高いため、視界はよくない。(写真30

写真30:小那比地内

 


4 明治の森

  河内峠から尾根伝いに北へ行く。送電線の道がある。大峠に至る途中に「明治の森」と名付けられた伝承林があった。1.1haに及ぶ林は永久に保護管理し、禁伐林となっている。

 

 

古峠(未確認)

国土地理院地図を見ていたら、近くに古峠という峠跡の表示があり、谷道から続く古道跡も表示されていたため、チャレンジしてみた。

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この古道跡は、郡上市美並町の北部から東に向けて峠を越え、八幡町野々倉や小那比(おなび)に抜けるための古道である。

事前の資料調査などゼロベースの地図頼りの行き当たりばったりの行動です。


まずは、国道156号から日向洞という谷道に入ります。
上流から美並の三日市トンネルに入る手前の谷が入口です。
初めて入る道です。(目的もなく普通は入りません)

北東方面に延びる林道を進むと途中からダートとなり、谷川沿いの傾斜のきつい道をゆっくりと登ってゆくと、途中で工事車両が止まっている二股道の場所まで来ました。

工事車両は谷道の一部崩落のための補強護岸工事のためのものでしたが、今日は休工で車両が放置してありました。

手前で車を停め、ここから徒歩で進みます。

地図では二股道を北にまっすぐ進む表示(地図の点線)となっているため、まっすぐ進むと、道の真ん中にコンクリートをこねるための大きな舟がありいずれにしてもこの先は車は入れません。

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舟を通り過ぎると、再び二股道が現れます。この時GPSをしっかり確認せずに、右の深い谷に入ってゆきました。(これが間違いの始まり)

道などという状態ではなく、深くえぐれた谷を沢に沿って歩くだけですが、その荒れていること!
100メートルも行かないうちに、倒木で進路をふさがれ、それでも何とか越えて歩きました。


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こんなところに古道があったとしても、大雨などひとたび降れば、沢道など跡形もなく消えるだろうなと思いながらそれでも500メートルほど進みました。

進路を確認しようと、GPSの位置情報を見たらなんと道を間違えています!
古道跡(地図によると)は二股路をまっすぐ北に進んでいました。
しかたがないので、再び来た道を戻り、二股地点を北に進みました。

またすぐ道はY字に別れていたので地図を確認し右側の谷を登りました。

林道はすぐにクローラー道(キャタピラの作業車しか入れない道)になり、さらに谷沿いには道らしい痕跡はなくなりました。
地図に示されたとおり、谷道を苦労して進んでいきましたが、途中には作業用のクローラー道が交差していて、それも利用しながらなんとか尾根筋までたどり着きました。

尾根筋は谷筋に比べ比較的歩きやすいのですが、地図に示されている峠あたりにきても、峠跡を示すような形跡は何も見当たりません。
少し北に歩くと頂上部になっていて、とても峠道という感じではありません。

何も見つけられないため、今度は鞍部から直接下り道跡を探しました。
鞍部をムリムリ下りていくと、北側に下る作業路に出たのでその道をたどり歩くと、ちょうど峰を一つ越えた谷筋に出ました。

この谷筋は先に登った谷よりも荒れた感じがなく、谷幅も少し広く感じます。
何よりも沢音が静寂で礫質の岩石で覆われた谷を流れる水音が神秘的ですらあります。

もしやと思い、この谷筋を再び登ってみようかとも思いましたが、これまでの渡渉の疲れもあり登りは断念し、沢に沿って歩いて降りました。
下りの谷筋も比較的広く、人が歩いてできたような地形も残っています。
10数分歩くと、最初に別れたY字の分岐場所に戻ることができました。

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ここまで戻ってきて思いましたが、地図に示されている古道跡(峠跡含め)が間違いなのではいいかと。
とても歩けるような道跡などない谷筋であり、こんな崩れやすい場所をわざわざ通るよりすぐ隣にある谷筋の方を通る方が合理的だし便利だし。

そうすると、地図に表示された古道跡(峠跡)が間違えて記載されたのではいなかと。
家に帰り、ブログを書いていてふと思い立ち、明治に作成された古地図を見比べて見てみると、古道跡がずれている。

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古地図のものは国土地理院地図より(もう一つ南の)鞍部を越えており、古道も南の谷に沿っている。

どちらが正しいのかわからないが、単純に考えれば古図が基になっていると考えられるため、現在作業路が最も尾根筋に近くに延びているあたりが峠である確率が高い。

地図が示す場所が正しいと思い込んでいるとこうゆうこともある。

次回再チャレンジをしてみたいと思う。 

円空仏師の通った道探索その①(失敗例)

一年ぶりとなる峠探索。
春から夏は暑いし、百姓が忙しい、冬は雪でむり。
そうなるとどうしても春先のこの時期が峠探索の季節になります。

今回は、この地域(諸説ありますが)を拠点として、全国を遊行し霊山霊地を巡り、神仏像を彫像して奉納し歩いた、江戸中期の修行僧、円空さんのその足跡をたどりたいと思いいたったのです。

戦後40年代から全国で始まった円空仏ブームにより、一説には生涯十二万体を制作されたと言われる円空仏の調査発掘が飛躍的に進み、全国で五千体以上の円空仏が確認され、その来歴が明らかにされました。

長良川周辺を拠点として活動されていたため、周辺には多くの円空仏が残されています。
活動の拠点とされていた美並地域をスタート地点として、そこからどのルートで各地に出向いたのかに興味があるのです。

痕跡が一番多く残るのは、美並から東に飛騨川に抜け飛騨や関東に向かうルートですが、近くにたくさんの円空仏が残る、(関市)上之保地域があります。
ここには高澤観音という著名な寺院もあり、円空さんも何度も訪れたと思われます。

美並からは、いわゆる既存ルート(街道)を通るコースもいくつかあるのですが、そこは修行僧としてあまり利用したくない(と思う)。
なのであまり人目につかない山道を利用したのではないかと思うのです。
円空仏が残る場所(一般の民家など)を見ていると結構奥まった場所にある残されていことが多く、きっと地域の人しか知らない山道を越えてきたのではないかと想像するのです。

すでに車道として残る峠道は避けて、地図には残されていない痕跡を探してみたいのです。

今回はほんといきあたりばったり、地図から見て、最短で高沢観音に抜けるルートを歩いてみることにしました。
美並から長良川沿いに国道を下り、洲原神社の先の立花トンネルを越えた左岸を川沿いに遡ると、いくつか東に向かう谷が現れます。
一番南側の谷には既設の林道があり、その道を行けば、高沢観音に抜ける美坂峠にでます。
それでは面白くないので、その北にある漆谷から尾根に登り尾根伝いに御坂峠に抜けるルートを探索してみました。

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取り付きは歩きやすそうな、中電の鉄塔作業道(道とはいえませんが)をたどってなんとか尾根筋まで上がりました。
尾根筋は笹薮はないものの、近年人が歩いたような痕跡はなく、各所で倒木やヤブに邪魔されました。
途中鞍部などに峠跡の痕跡などないかと注意深く見ましたが、それらしい痕跡はありませんでした。
結局なんの成果も見いだせず、美坂峠に出てしまいました。

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それよりも、一年間のブランクが思った以上にきつく、二時間のアップダウンでヘロヘロとなり、もうこれ以上山道はギブアップで、結局既設の林道を歩いて戻りました。
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今回は大失敗だったので、次回はもう少し事前調査をしたうえで歩いてみたいと思います。

六ノ里から奥大間見へ抜ける峠

この峠も既に地図上には痕跡はなく、"忘れられた峠道"となって久しい。

六ノ里は、古来から東西に延びる鎌倉街道の一部と言われており、古くから山越えのルートが発達してきた地域である。

現在も、大洞峠を越えて明宝寒水(かのみず)へ抜ける道が現存している。
また、栃洞から南に山越えをすれば大和の母袋(もたい)集落であり、古来から山越えの交流があったことが伝えられている。

今回は、六ノ里と野添集落の境目から南に山を越えて奥大間見の集落に抜ける峠道の探索を行った。

地理院地図で見ると、奥大間見からは、石原林道という林道(途中から作業路)が峠あたりにまで続いている。
そして、その向こうには、六ノ里側に点線が集落まで続いているので、これは昔の古道(峠道)であると確信したのだ。

古峠ハンターのセオリーとしては、"旧道探索は峠跡を見つけることをスタートとすべし"であるため、まずは車道が続いている大間見側から侵入した。

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六ノ里奥大間見峠

林道は途中いくつか分岐しているが、那留のため池に行く道と分かれる林道が北に延びるあたりに谷川が流れており、その谷の奥に峠があるのだが、既に歩かれなくなって50年も経た古道はほぼ見つけることが不可能なため、このあたりに車を停めて新たに新設された(30年程前か)作業路を歩いて峠付近まで行った。

途中、谷そばに古道跡らしきものを見つけることもできるのだが、地形が変わりすぐロストしてしまうため、まずは峠を見つけてそこからたどることが、古道探索の胆なのだ。

作業道を登っていくと尾根筋あたりに来たので、一番鞍部らしい場所に見当つけて尾根筋に登ってみると、峠道跡はすぐに見つけることができた。

峠あたりは、U字型に削られていることが多く、見つけることが容易いのだ。(
写真1)

案の定、ここもわかりやすく削られている場所であったが、その先はすぐにわかりにくくなっており、作業路が入った大間見側は特に荒れてしまっていることが多い。

まずは、峠から栃洞集落側にたどってみることにする。

地図に点線で表記された場所は比較的なだらかで、両側を尾根筋に囲まれた広い谷筋を下ってゆく感じであるようだ。
40年程前に植林された杉林を下ってゆくと、峠から程ない場所に炭焼き窯跡があり、植林以前には金木林で炭焼きが行われていたようだ。さらに進むと巨石も沢山あった。

途中途中には古道跡があり明らかに人の通った痕跡が残るが、4~50年の経過でほぼわからなくなってしまった場所もあった。

集落の手前300メートルまではたどってみたが、この先は改めて車で六ノ里で確かめることにして、峠に戻り今度は大間見側を探索してみることにした。

大間見側は作業路がつけられていることで、さらに荒れているためほぼ古道跡は見つけることはできませんでしたが、古道はほぼ谷筋沿いにあったと思われるため谷筋を沿って歩いてみた。

谷は徐々に深くなり川となっていて、滝のようになっている場所もあったが、なんとか車を停めた場所までストレートに帰り着くことができた。



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鷲見から一色に抜ける峠(県道惣則高鷲線)

このコースは高山市荘川町一色から郡上市高鷲町鷲見に抜けている惣則高鷲線にある峠部分だ。峠名は無いが古地図には県道となっている部分とほぼ同じ個所が点線で描かれ古来から峠道と認識されていたことがわかる。

冬季閉鎖区間(5月下旬か?)であるため車での侵入はできないので、鷲見側の閉鎖口に車をデポし歩いてみることにした。(距離的には峠まで10分程度)

標高差も100m未満なので楽々登れるしかも峠までは県道を歩いてみた。

一度谷を迂回してから直ぐに、峠部分らしき深い堀切りに出た。
かなり削ったらしく両側に壁のように擁壁面がそそり立っている。

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高山市郡上市の市境である標識がある他は、何も峠を表す表記はない。
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これほど切り崩されていると峠部分は探しようもなく峠を下りながら旧道を探すことにする。
地図で見ると、峠の鞍部の谷は車をデポした谷筋につながっていたため、古道はこの谷筋に間違いはないだろう。
途中、谷に降りやすい場所を探して下りてみた。
谷部は樹齢50~60年程経っている針葉樹の人工林となっていて、藪もなく歩きやすい。
水の少ない谷沢は割りと広くて、歩く場所は広いが古道と呼べるような明確な跡は分からない。植林してしまうと地形そのもの変わっていまうことが多く今回もそのようだ。

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わずか、10分弱で車のあるところに出ることができた。
古道はまずこのルートで間違いないだろう。

荘川側の道も歩いてみたが、古道らしい跡は見つからない。
県道の建設で消滅したか、もしくは鷲見側と同じく下部の谷筋を歩いていたかのいずれかだろう。

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さらに行くと、舗装道路は半分以上谷筋に崩落していた!(車で来なくて良かった)

荘川側の一色川を下って集落辺りまでくると見える高速陸橋越しの白山連峰。
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近くには、珍しい茅葺の拝殿を持つ白山神社が鎮座していた。
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