いにしえ峠道

既に記憶からも遠くなり忘れ去られた峠越えの山道を歩いてます

幻の鎌倉街道を考える②

服部氏の『峠の歴史学』に記述された、鎌倉街道についての概要は①に書いたが、著書にも書かれているように、過去にもいくつかの資料からその存在が明らかになっている。

飛騨・信濃鎌倉街道については、岐阜県教育委員会発行の『歴史の道・飛騨<野麦・越中>街道調査報告書』、美濃・郡上の鎌倉街道については、金子貞二著『明宝村史』『奥美濃よもやま話』にその記載がある。

その他、服部氏のフィールドワークによる1993年から1994年頃の現地調査の聞き取りで、いずれも聞き書きによる調査資料であるため、その実態は伝承の域をでないものである。

ここからは私の推察であり妄想である。

鎌倉街道という公式の街道について歴史資料が残っていない(そもそも鎌倉街道という言葉自体が近世以前には無かったとも)ことは事実であるが、鎌倉を始点とする街道が整備されていたことは事実である。
関東には当時の街道であったろう場所が鎌倉街道(上道、中道、下道)として推定されており、鎌倉幕府の都市機能を拡充するため、また、周辺の治安確保のために作られたことは当然と言えば当然であるが、その多くは関東平野の周辺までである。(上道は碓氷峠あたりまで延びていたといわれるが)

この著作に書かれている両地域は、山の中のど真ん中である。しかも日本の脊梁といわれるアルプスを越えた地域にある。
自ずと街道の性格に大きな違いがある。
『いざ、鎌倉』と言って駆け付ける者も関東武士ではないのである。

だからそのことを同一に考えることはできない。(ただ、平野部からは既存の鎌倉街道と合流はするだろうが)

ここで考えてみたいのは、
①もしこれが、当時の軍事(物流)路であったならば、だれがそれを利用したのか?
②もしこれが、当時の軍事(物流)路でなかったならば、だれがそれを利用したのか?

①は、その道を利用して鎌倉および関東へまかり出た武士を探さなくてはならないし、②であるならば、どのような者がこの通路を通って、移動していたのかを調べなくてはならないだろう。

①は簡単には答えの見つからない難題であろうが、②については時代を新しくすればある程度は遡ることは可能である。

現に、戦後のまだ高度成長を迎える前の頃までは、少なくとも集落間の生活道路として機能していたことは、聞き書き資料などからも明らかになっているからだ。
ではそれ以前の近代はどうであろうかというと、集落は小さな寒村であるにも関わらず、昭和以前からのヨロズ屋や宿屋が残っていたことが記録に残っており、この街道(山道)を使って旅や商売をしていた人が少なからず存在したことが裏付けられる。
問題はその先の時代をどれくらい遡れるのかということだ

一つ可能性があるのが、修行僧や修験者達の連絡通路だ。
彼らは、移動についても修行(遍路や遊行として)の一つであり、天下の公道を使うことを嫌い、山中の人目のつかない道を通っていたといわれている。

話は飛ぶが、美濃越前県境の山間部の集落には、古くは義経の東北逃避ルート、近くは石山合戦を逃れた教如上人の隠棲ルートという伝承が残るくらい、敵から逃れるための秘密の山道が古くから発達していたのだ。
このような山道を把握し支配していたのが、白山修験であり、密教僧ネットワークであったと言われている。

現に江戸初期(17~18世紀)に岐阜を中心に全国に遊行・修行を行っていた仏師円空がこの地域を歩いていたことが知られ、飛騨や越中信濃および駿河へ抜けていたと考えられる。

それならば、近世以前にもこの道が利用されていたかどうかということですが、そこまでは現時点では明確な証拠は残されていません。

3につづく・・・