いにしえ峠道

既に記憶からも遠くなり忘れ去られた峠越えの山道を歩いてます

幻の鎌倉街道を考える③

いにしえ、この街道を通っていた人々の足音をたよりにその姿を想像する。
ある意味それは、歴史ロマンである。

近世の渡世者の姿から、山を巡る修行者や修験者の姿が浮かび上がってきた。
江戸期に全国を修行・巡礼していた旅僧円空もその一人だったに違いない。

修行僧・修験者がこの地域を巡る最大の理由は、白山信仰の聖地であることが第一の理由となるだろう。

白山信仰は霊峰白山を中心に開けた、美濃馬場、加賀馬場、越前馬場の三霊場を中心に開けた巨大な信仰圏である。
白山の南面であるこの美濃・東海は美濃馬場の信仰圏であり、その範囲も寺社数も三馬場の中でも最大である。
その中心を為すのが白山中宮長滝寺(長滝白山神社)であった。
その信仰の北限は飛騨、南は美濃、尾張、三重(北部)、三河遠州へと広がっている。長瀧寺の開基は、718年(養老2年)勅命により越の大徳泰澄により法相宗の寺院として創建されたと伝えられ、828年(天長5年)天台宗に改められ三馬場の一つとして位置づけられたという。

美濃馬場への参拝路は禅定道と呼ばれ、美濃禅定道は長良川に沿って北上する道を言う。
白山信仰・白山修験の徒は、古代から中世のかけて周辺の山々を越え白山禅定をしたに違いない。

西は比叡山、南は伊勢・熊野、東は御嶽山秋葉山から山尾根を渡り峠を越えて修行・廻国の徒がこの道を通過していただろう。

木食行や巌籠りなど、厳しい廻国修行を続けた円空は自分の経歴や出自をも語らないという修行者であるが、ある時世話になっている僧侶にそのを由来を尋ねられた時、それには答えず『我、山嶽ニ居テ多年仏像ヲ造リ、ソノ地神ヲ供養スルノミ。汝ソノ地ニ至リ是ヲ見ヨ』とだけ言ったという。
円空深山幽谷を巡り、嶽に籠りその地の神仏を彫りだして歩いた。
その地に残された円空仏だけが、円空の歩いた足跡を物語っているのである。

鎌倉街道として知られたこの山道を円空は幾度も駆け抜け、飛騨へ、富山へ、関東へ東北へと旅立ったのであった。