いにしえ峠道

既に記憶からも遠くなり忘れ去られた峠越えの山道を歩いてます

母袋と幻の鎌倉街道

母袋を東西に抜けつながる鎌倉街道の概念図

    山を越え伸びる、いにしえのハイウェイ

 

母袋(もたい)

 それがこの集落の通称として古くから呼ばれている名前です。
古い地名には、漢字が定着する以前の地域呼称が含まれていると言われています。

その呼び名にどのような意味が含まれていたのか、今はもう知ることができませんが、この母袋地区を流れる栗巣川の下流には、鎌倉時代の頃より関東武士である東氏(千葉一族)が領有しており、京の貴族や関東の諸侯との文化交流が深められたと言われています。

その居城跡である篠脇城と栗巣川を挟んだ対岸には、千葉一族の氏神である妙見宮(明建神社)が建立され、その参道から続く栗巣川沿いの道は、母袋街道ともいうべき風光明媚な古道が続いています。

栗巣川の上流であるこの母袋地区は、周囲を山に囲まれた最奥の集落ですが、古い時代には山越えの峠道が発達し、周辺の集落と交流がありました。
もはや廃道となり跡形もなくなってしまった道の一部は古老から鎌倉街道と呼ばれていました。

鎌倉街道の鎌倉は、もちろん鎌倉時代の鎌倉であり、鎌倉幕府のあった鎌倉であることは間違いありません。
しかし、この道の先が鎌倉につながっていたということは、地域の人々にも、また歴史資料にも残されてはいないので、伝承の域を出ないというのが今日の見解です。

母袋のみならず、このあたりの村々は多く周辺を山に囲まれた秘境のような集落が点在しています。

西に大間見、北に六ノ里、東に寒水・気良、東に古道がありますが、全ての集落に山越えの峠道が発達していて、まだまだ交通手段の発達していない戦後の60年代ぐらいまでは生活道として住民の多くがこの道を活用していました。
古い時代でいえば、江戸時代の宝暦年間に起こった郡上一揆では、郡上一円の百姓が何度もこの峠道を越えて集まり、年貢取り立ての藩の横暴に抗ったと言われています。

今では、隣村まではぐるりと平地の道を迂回して行くのが当たり前になっていますが、以前は大人も子供もこの峠道を下駄や雪駄で歩いて通いったのだそうです。

その証拠には、隣接する峠越えの村々での婚姻が過去には多く見られといい、若者たちは隣村の盆踊りに峠を越えて出かけたものだと古老は話します。
先ごろ無形文化遺産として郡上踊りとともにユネスコに登録された風流躍り「寒水の掛踊」は、郡上市内の11箇村に残されており、村から村へと伝わったという伝承には、この峠道が集落の伝統芸能のネットワークであったことがうかがえます。
今でもこの小さな集落の中に、お店や宿が残っていたことを考えると、単に隣村との交流だけでなく、山を越えて移動する林業者や薬売り、絹糸や藍染の仲買人達がこの峠を越えて移動することも多くあったのではないでしょうか。


そんなことも今や昔となり、町に働きに出た若者が村に戻らない現象は、ご多分に漏れず地区の人々を悩ましていますが、一方でこの地域の自然と人々の暮らしぶりに魅力を感じ新たに暮らしを始める若者が増えていることも事実です。


自然豊かな山里の風景の中に、往古の時代から繰り返された人々の移動と交流の物語りを想像してみるのもこの地域での楽しみの一つです。

 

幻の鎌倉街道を考える②

服部氏の『峠の歴史学』に記述された、鎌倉街道についての概要は①に書いたが、著書にも書かれているように、過去にもいくつかの資料からその存在が明らかになっている。

飛騨・信濃鎌倉街道については、岐阜県教育委員会発行の『歴史の道・飛騨<野麦・越中>街道調査報告書』、美濃・郡上の鎌倉街道については、金子貞二著『明宝村史』『奥美濃よもやま話』にその記載がある。

その他、服部氏のフィールドワークによる1993年から1994年頃の現地調査の聞き取りで、いずれも聞き書きによる調査資料であるため、その実態は伝承の域をでないものである。

ここからは私の推察であり妄想である。

鎌倉街道という公式の街道について歴史資料が残っていない(そもそも鎌倉街道という言葉自体が近世以前には無かったとも)ことは事実であるが、鎌倉を始点とする街道が整備されていたことは事実である。
関東には当時の街道であったろう場所が鎌倉街道(上道、中道、下道)として推定されており、鎌倉幕府の都市機能を拡充するため、また、周辺の治安確保のために作られたことは当然と言えば当然であるが、その多くは関東平野の周辺までである。(上道は碓氷峠あたりまで延びていたといわれるが)

この著作に書かれている両地域は、山の中のど真ん中である。しかも日本の脊梁といわれるアルプスを越えた地域にある。
自ずと街道の性格に大きな違いがある。
『いざ、鎌倉』と言って駆け付ける者も関東武士ではないのである。

だからそのことを同一に考えることはできない。(ただ、平野部からは既存の鎌倉街道と合流はするだろうが)

ここで考えてみたいのは、
①もしこれが、当時の軍事(物流)路であったならば、だれがそれを利用したのか?
②もしこれが、当時の軍事(物流)路でなかったならば、だれがそれを利用したのか?

①は、その道を利用して鎌倉および関東へまかり出た武士を探さなくてはならないし、②であるならば、どのような者がこの通路を通って、移動していたのかを調べなくてはならないだろう。

①は簡単には答えの見つからない難題であろうが、②については時代を新しくすればある程度は遡ることは可能である。

現に、戦後のまだ高度成長を迎える前の頃までは、少なくとも集落間の生活道路として機能していたことは、聞き書き資料などからも明らかになっているからだ。
ではそれ以前の近代はどうであろうかというと、集落は小さな寒村であるにも関わらず、昭和以前からのヨロズ屋や宿屋が残っていたことが記録に残っており、この街道(山道)を使って旅や商売をしていた人が少なからず存在したことが裏付けられる。
問題はその先の時代をどれくらい遡れるのかということだ

一つ可能性があるのが、修行僧や修験者達の連絡通路だ。
彼らは、移動についても修行(遍路や遊行として)の一つであり、天下の公道を使うことを嫌い、山中の人目のつかない道を通っていたといわれている。

話は飛ぶが、美濃越前県境の山間部の集落には、古くは義経の東北逃避ルート、近くは石山合戦を逃れた教如上人の隠棲ルートという伝承が残るくらい、敵から逃れるための秘密の山道が古くから発達していたのだ。
このような山道を把握し支配していたのが、白山修験であり、密教僧ネットワークであったと言われている。

現に江戸初期(17~18世紀)に岐阜を中心に全国に遊行・修行を行っていた仏師円空がこの地域を歩いていたことが知られ、飛騨や越中信濃および駿河へ抜けていたと考えられる。

それならば、近世以前にもこの道が利用されていたかどうかということですが、そこまでは現時点では明確な証拠は残されていません。

3につづく・・・



 

 

幻の鎌倉街道を考える①

服部英雄氏の著作『峠の歴史学』を読んで、その中にも記述のある鎌倉街道について改めて考えてみたいと思う。

以前から郡上の北西部の地域に『鎌倉街道』という山越え道の伝承が残っていることについてこのブログの中でも部分的に触れていたが、この書物にある記述に触れ、改めて体系的に考えてみたいと思うようになったのだ。

本書の中で書かれている、鎌倉街道についての記述の特徴は、

①全国的にみて、鎌倉街道ないしは鎌倉道と伝わる道は決して多くないが部分的に偏在し地名として残っている。

②これまでの調査は鎌倉から東京、埼玉地域が中心であり、他の地域ははっきりしない。

③そんな状況を踏まえ、飛騨と信濃を隔てる北アルプス南部の乗鞍周辺の峠道と、美濃郡上から東西に走る峠道に残る鎌倉街道の伝承をフィールドワークしている。

④乗鞍周辺を越している鎌倉街道の伝承では、西に飛騨を越えて越中に抜け、東に中山道塩尻に合流している峠越えの道である。

⑤美濃郡上に残る鎌倉街道の伝承では、東西を走る峠越えの道で西は越前穴間に抜け、東は飛騨街道から南北街道で中津川に抜けるルートと考えられる。

⑥いずれも部分的な伝承として伝えられており、近世以前にそのような街道が続いていたという事実は明らかにされていない。

⑦ただ、金森法院長親が高山に普請した野麦街道などの新たな道路を整備した時に、それ以前利用していた峠越えの道が脇街道となり、古い道という意味で鎌倉街道との呼称が残った。

⑧調査の結果、鎌倉街道とされる道は峠道や尾根道が多く、逆に谷を越える道は少ない。 軍用道路としての機能に必要な牛馬(牛は谷越えを嫌う)による移送が前提となっているようだ。

これらの記述が明らかにしているのは、美濃、飛騨、信濃越中をつなぐ鎌倉街道は、東国と西国の間に横たわる日本アルプスの巨大な山塊を、東西に最短で抜けるための軍用道路であるようだ。

近代の目で見ると、平野の多い海岸沿いの道(東海道など)をなぜ使わないのかと不思議に思うが、水害や増水で渡れない下流の大川では、通行不能となる可能性が高く、軍事利用にできるようになるのは近世近くになってから待たなければならなかったのだ。

その2につづく・・


飛騨の鎌倉街道略図(著作からの作図)

 

美濃の鎌倉街道(加賀・越前道)概要図



 

気良峠 郡上市明宝

"気良"と書いてケラと読む。

郡上市の旧明宝村にある集落である。

気良には思い出がある。

郡上にUターンする前に、若者たちのイベントで初めて訪れた場所なのだ。

初めて訪れたその場所は、牧歌的な風景の続くいかにも農村という光景であり、それまで持っていた郡上のイメージが大きく変わったことを覚えている。

気良峠というのは、気良から東に山を越え、吉田川をさらに遡った所にある場所にある支流、奥長尾川の流域集落、奥長尾(なご)集落に抜ける峠だ。


今では二十数件の小さな集落がある洞だが、大きなお寺も残り、以前はさらに多くの人が暮らしていたようだ。
この集落から気良に抜けるには、吉田川をぐるっと下り気良川を遡るのが当たり前になっているが、以前(多分60年以上前)はこの峠を利用していただろう。
気良峠と名づいているのは、奥長尾から気良に抜けるために利用されていたからの名前のようだ。


国土地理院地図にも峠名が表記されており、古道跡が記載されている点線で記載されている。
気良側から探索することを決めたが、奥長尾集落まで抜けるのは時間がかかるため、とりあえず奥長尾の集落と峠口を確認するために向かった。
集落最北には小さな白山神社があり、この谷の氏神として古くから大切にされてきたようだ。
そこから奥にも流域沿いに林道が続き、今ではそちらからも気良に抜ける道があるようで、犬の散歩をされていた村民に気良峠のことを聞いたら、そちらの道を教えてくれた。
もはや古道の峠道のことなど地元の人でさえ覚えていないのだ。
どうやら峠道は神社手前を左に入る小さな谷川沿いに続いているようなので、それを確認し気良側に向かった。

気良側の峠入り口は集落中ほどの田口洞というところから続いている。
集落を北に貫く幹線からすぐのところから洞の入り口となり、洞の入り口となる林道は、作業路のようで入り口に柵が設置してあり、一般車両は入れないようになっている。
当然奥には家はなく、谷筋から山水をとるためのパイプが数本伸びていて、通常はその山水管理のために利用されているようだ。

入り口に車をデポし、柵を開けて歩いて入っていった。

作業路は堰堤あたりまで車(軽トラック)が入っていけるようですが、そこから先はほぼ不可能で各所で崩落しています。
古道の痕跡はほとんど見つけることができません。きっと谷筋に続いていたと思われますが、林業作業路や堰堤工事のため跡形もなくなっています。

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二つ目の堰堤を越えたあたりで、作業路は右へ旋回して尾根筋を登っていますが、結局は元の谷筋の高所を通り合流します。

谷筋がなだらかとなり、旧道跡らしきものも少し見えてくるころ、いよいよ先が明るくなってきたので、峠も近くかと思ったらそこは、広く皆伐されたすり鉢状の谷でした。

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すでに伐採されて十年近く経ったと思われるその跡地は、ほぼ再生の兆しは見られず、土石流の後のように残材木が残る壮絶な光景です。

その尾根筋近くを立派な擁壁で作られた林道が敷設されていて、とりあえずそこまで迂回しながら登ってみました。
地図で峠跡を示す場所まで来ても、ほぼ林道が尾根筋を通っておりどこが峠だか分からない状況でしたが、林道の脇を斜めに降りていくような痕跡があり、20m程下ったところになんと、お地蔵さんが鎮座していました。

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よく見たら、土台の台座も石で組まれ、設置当初からそこにあったことがわかります。
風雪の浸食で彫られた文字もよく見えないのですが、弘化五年(1848)とかろうじて判読できました。
100年くらいは峠を越える人々をこのお地蔵さんは見守ってきたのでしょう。

ここまで1時間以上かかりましたが、まだ道がしっかりしていた当時なら、30~40分かからず峠まで来れたに違いありません。
当時、奥長尾集落の子供たちは、気良の学校へこの道を通って通っていたのだろうと思います。

気良から先には、西に伊妙峠があり寒水に抜けることができます。さらに、母袋に大間見に、六ノ里に抜ける峠道があり、当時は郡上の東西幹線(鎌倉街道とも呼ばれた)であったのでしょう。


 

 

【番外編】稚児山白山遠望

気持ちはあるのだが、なかなか峠探訪が進まない。
今回はその足慣らしとして軽めの登山を試みた。

登山というのもおこがましいくらいの山なのだが、たまたまGooglearthで3D地図を見ていたら、近くから白山展望が良さそうな山を見つけたので軽い気持ちで歩いてみた。

比較的白山に近いロケーションにあるこの地だが、近いがゆえに、白山を遠望するのがなかなか難しい。手前にある1000~1500mの山に遮られて山容が見えないのだ。

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Googlearthで見るとこんな風に見えるので、朝はまったくその気はなかったのだが、お昼を食べてから速攻で向かった。

この山は地元でもなじみが深い、稚児山という低山(618.8m)だ。
郡上八幡の入り口にあたる長良川沿いにある山で、上流から眺めると秀麗な独立峰がそびえ、その山頂には電波塔のような鉄塔が立っていてとても目立つ。
地元の小学生にはハイキング登山として利用されているようだ。

国土地理院地図で見ると、麓の西安久田から尾根を直登する登山路が記載されている。
そこから山頂まで200mの登山ということで、冬でなまった体にはちょうどいいトレーニングというところだろうか。

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登山口は集落への分かれ道入り口近くにありすぐに見つけられた。
登山道は思ったよりも歩きやすく、古道後のように道がえぐれ、古来から登拝路として利用されていたような雰囲気があったが、山頂までの間には何ら痕跡を残すような遺物は残されていなかった。

道はすぐに尾根道となり、山頂近くからからは傾斜がきつくなってきたがわずかな距離であった。(尾根の途中には新しそうな熊のフンも発見しちょっとびびった)
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山頂には大きな電波塔があり、比較的広く周囲が整備されていた。
三角点はあるものの、山頂名を示すものはどこにもなかった。

しかし、山頂からは周辺の広葉樹が邪魔になり、白山はおろか、間近に見えるはずの郡上八幡の街並みさえも見えなかった。
どこか見えるところはないかと、鉄塔周囲を歩いてみたら、裏側(南東)のそばに石碑を見つけた。

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表に白山神社と書かれている50cm位の石碑には、表に白山神社と彫られており、裏側には個人名と奉納の期日の銘があった。
その周囲には、無数の小判型の長細い自然石が置かれていた。

やはりここは、古来からの白山遥拝地であったようだ。
登拝者が参拝の記念に奉納していたものの痕跡である。
しかし、白山神社を示すような祠のような跡はどこにもなく、もしかしたら、古い時代に山里の神社に合祀されてしまったのかもしれない。
稚児山(ちごさん)という名前からして、何らかの信仰の歴史があったのだろう。

しかし、白山が望めなければ遥拝地とは言えないので、何とか見えないものかと、枝の隙間を探したら、植樹された針葉樹と雑木林の境目から何とか遥拝できる場所を見つけることができた。

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実は、この山の南に谷川(千虎川)を挟んである山の麓には宝伝の滝(千虎滝とも)という小さな滝があり、そこは江戸時代の修行僧である円空法師が白山神を感得した記念として仏像を収められた場所でもある。


やはりここは古来からの白山遥拝地であったのだ。
白山信仰を広めた泰澄大師や円空さんが、ここから白山を遠望したのかと思うとありがたみもひとしおだ。


 

 

中山道鳥居峠(お楽しみ企画)

さてさて、
ゴールデンウィークお楽しみ企画の第2弾!

今回は、中山道の薮原宿と奈良井宿の間にある鳥居峠を歩いてみることにしました。
言わずと知れた中山道、天下の五街道を歩くわけですから、いつもの峠探索とは全く異なり、大都会に出た山野のこだぬきの様なおのぼりさん状態です(笑)

やはり、古道と言っても天下のタイドウですから、いつものような野生の感は必要ありません。
目をつむっても歩ける(嘘)

今回は、宿から宿まで歩きたいので、薮原の駅に車をデポし、帰りは奈良井駅から電車で戻ることにしました。(そもそもこれが安易でした)

天下の街道ですから、要所要所に案内板があり、手元にウォーキングマップなどなくても道を外れることはありません。(まあ、あったほうが安心ですが)


奈良井の街も落ち着いた街ですが、やはり天下の中山道の宿場町の風情が今も色濃く残り、駅前から線路伝いに続く町並みは、なかなか観光気分をそそります。

宿場町から再び線路を越えて山道に向かう入口には、鳥居峠への指標があり線路を越えた先には、街のシンボルのように極楽寺と薮原神社が並んでいます。
急ぐ旅でもないので、旅の安全祈願としてお参りさせていただきました。

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薮原神社は、明治以前は熊野社、熊野権現社と呼ばれいていたようで、天武時代からのご由緒を持ったお宮で、城壁の様な立派な石垣にお寺を思わせる入母屋造りの社殿正面でしたが、遠くから眺めてみたら立派な千木鰹木が並んでいました。

参拝をした時内部をよく見なかったことが悔やまれますが、本殿は覆屋の中に屋内社としてあり、立派な立川流の三間造りの社殿であったようです。(後日ウェブで知りました )

あまり物見遊山では前に進みません。
薮原神社を後に、鳥居峠に向って坂を登ってゆくと、そこには「飛騨街道分岐点(追分)」と表示があり、ここから鳥居峠に向かう中山道と、境峠を越えて奈川村へ入り、野麦峠を越える飛騨街道(奈川道)の追分がありました。
前日に野麦峠を越えたばかりだったので何だか感無量でした。(野麦峠のページ参照)

すぐ先には「尾州鷹匠番所跡」もありました。

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ここからは市街地を抜けてようやく山道が現れてきました。(入口近くに廃自動車が並んでいるのはいただけませんが)
山道は始め、車が入れる林道と重なっていますが、途中から林道を離れて古道を歩きます。
この入口を見落とすと、林道をひたすら歩くことになります。

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薮原駅から鳥居峠

石畳があるほうの道(看板表示の左側)へ進みましょう。(山頂付近では合流するため、迷うことはありませんが、景観は大きく違うでしょうから)

ある程度登ると、今歩いてきた薮原宿の町並みが見える高台まできます。
ここから丸山公園を越えれば、御嶽遥拝所があり、神社があります。

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神社を越えて少し行くと、道が二股に分かれていますが、右側の道は以前の古道で新道のすぐ上を通っていたようですが、危険なのか現在は下に新たな道が整備されています。

いよいよ峠ですが、道は林道(車道)と合流していて、山を切り開いて峠を越えています。(峠地点の指標もあります)でも何だか、風情がないなと思いながら歩くと、峠の休憩所が現れました。

よく見ると休憩所の横からさらに上に行く道がありそれを登っていくとありました。
旧峠は、林道峠の手前をV字に登るコンクリートの坂道を行けば直ぐあったようで見逃していました。(大した距離ではないので戻っても良いでしょう)

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峠を堪能し、すぐ奈良井宿に向いました。
奈良井宿に向かう古道は、来た道に比べるとなだらかな坂道で視界も開けていて、途中にある谷を越えるための木橋は何とも旅の風情を感じさせてくれます。

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鳥居峠から奈良井宿まで

中間地点にある中の茶屋(落書きだらけですが)を越えれば、道はさらに平坦で奈良井の街に近づきます。 途中に奈良井宿を遠望する展望台があるのでそこから町並みを見ると良いでしょう。

奈良井宿の町並みに入る手前で、石畳の道を過ぎると、小山を一つ降りなければなりませんが、そこが車道であったため、無精者の私は、山肌をショートカットしてしまいました。(スミマセン)

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最期は鎮神社に続く短い古道に出てゴールとなります。

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そこから続く奈良井宿は思いのほか長い街並みで、沢山の観光客に溢れていました。
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そうそう、今回の失敗点を伝えなくてはなりません(それが情報として一番大事なので)

今回薮原駅から車をデポして歩いたため、帰りは奈良井駅から中央本線に乗って戻らなくてはなりません。途中で時刻表をチェックしてビックリ、二時間待ちです(泣く)

なんと、8時40分発の後は11時27分まで普通列車が来ないのです。
7時に薮原の駅を出発した私は、ゆっくり歩いても9時半には奈良井宿に着いていて、もう後は観光するほかありません。奈良井宿を何度往復したことか(泣)

こんな初歩的なミスは迂闊な私にはよくあることですが、まさか天下の中央本線がと侮っていました!!

今回の反省点として、先に列車に乗り、行く先から歩いて戻るという行程にするべきでした。
そう考えると奈良井宿で車をデポし、列車で薮原まで行き、そこから歩くのが良いようです。

しかーし、ここで一つの問題は、奈良井宿は近くに公共の駐車場がないらしく、駅近くは有料なのです。(500円、休日だけか?)だから少し歩いて公共の駐車場に止めましょう。

==終わり==



野麦峠(お楽しみ企画)

今回はゴールデンウィーク中ということもあり、遠出もできるということで特別企画として企画してみました。

野麦峠は知らない人もいないくらい有名な峠です。
その分けは、『ああ、野麦峠』という映画が1979年に制作上映され、大ヒットしたこともその知名度に大きく影響していす。
(昭和54年の邦画配給収入ランキングの第2位、80年のテレビ放映では視聴率34%越え、WIKI調べ)

その映画タイトルにもなる峠道は、
乗鞍岳(3025)の峰から南東方にある標高1672mの峠で、古来より飛騨国信濃国を結ぶ鎌倉街道とも江戸街道とも呼ばれた古道です
現在は、県道39号野麦高根線が通っているため、自動車で快適に通行することが可能(冬季通行止め)ですが、この県道開設以前はこの峠道を越える他ありませんでした。

映画では、明治大正期にかけて、飛騨地方の農家の娘たちが、当時繊維産業が発達していた長野の諏訪・岡谷の製糸工場へ働きに出ていくことが多くなり、年季ごとに飛騨から信州へと娘たちが越えた、野麦峠に残る史実を女工哀史物語として作品化されています。

それ以前から、この街道も飛騨から富山湾でとれた魚を運ぶ鰤(ぶり)街道としても利用されていたと言われています。

そんな有名な峠道なので、古道を探索する必要もなく、地図にもはっきりとした旧道跡が示されているため、今回は安心安全な旅行気分になるはずだったのですが・・・

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旧道の入口は高根町野麦の集落を過ぎ、山道に入って少し過ぎたあたりに「野麦峠旧道入口」と書かれた場所を谷筋に分かれる場所を入ってゆきます。
沢筋の途中まで林道があり普通車でも楽々入っていくことができます。

山から別の支流が入り込むあたりに、作業土場がありそちらで今回は車をデポすることにしました。(だからもちろん峠から戻ることになるのですが、今回はそれが予想以上に困難でした!)

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林道を少し行くと、次の沢筋を越えて山肌へ延びる古道の標識があるのでそちらに登ってゆきます。地図どうりに山をぐるっと回る場所までは、ジグザグの坂道が続き多少ハードですが大した距離(45分程度?)ではないのでサクッと越えられました。
ちょうどその辺りに、祠の地蔵が安置されていました。

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しかし、北側の山肌を歩いていると、5月なのに谷ごとに残雪が残っている場所があり、それが、結構な急斜面にあるため、下手したら滑落の危険があります。(とは言っても死んでしまうような場所ではなく、ちょっとケガする程度でしょうが)
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まったくの春登山(というかハイキング程度の装備)の山靴なので、グリップがあるはずもなく、ずるずる滑るのを慎重に(場所によっては四つん這いになり)歩きました。

そうした、危険個所を何度か抜けて、峠部にたどり着きました。
思ったよりも時間はかからず90分弱で峠に到着です。

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峠にはお助け小屋というにはあまりにも立派な、峠の茶屋がありその大きな古民家で少し風が強くなり寒くなってきたのでうどんを食べました。

うどんを食べ終わり、隣の野麦峠資料館でも見て帰ろうかと思って、外に出たらなんと!

吹雪きです!?

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雪というよりは、ヒョウの小粒なものが大量に風と共に吹き荒れています。

車で来ていた観光客も、車外から慌てて車にもどったりしてみんなびっくりしていました。

私も、ほぼ普段着の様な軽装で歩いていたのですが、急いでトイレに入りカッパの上下を着て風邪対策をしました。もちろんフードしっかりかぶり寒さ除け対策もばっちりです。

半時間ほど吹雪いていましたが、前が見えないような状況ではなく、山裾は部分的に風が和らぐため、峠にいるよりははるかに安心でした。

帰りはサクサクと歩き、ほぼ1時間でデポ場所まで戻ることができました。

野麦峠古道としてウォーキングを奨励しているだけあって歩きやすく良い山道でした。
もちろん、季節外れの吹雪がなければ・・・

=終わり=